重成の戦死の状況(その1)

 1615年5月6日の若江の戦い木村重成井伊直孝の家臣・安藤重勝が討ち取ったと言われているが、それは事実ではない。重成と刃を交えて戦ったのは同じ井伊家の家老・庵原朝昌である。その時、すでに重成は戦いに敗れており、兵士達に一緒に撤退することを勧められたが、彼はそれを無視して再び攻めかかっていた。
 そして朝昌と出会い、馬上で槍の突き合わせた。朝昌が十文字の槍で重成の隙を突いて白幌にひっかけて、馬上から田の中にうつぶせに引きずり降ろした。そこを朝昌の若党4〜5人がいっせいにかかって首を討ち取っている。

 そこに重勝が来た。
「私は今日の戦でいまだに一つの首も獲っていません。願わくば、その首を私にください」
「この人物は木村重成と名乗ったが、真偽の程は不明だ。とにかく今日の戦は終わるだろう。お前もこれほどの首を獲れば不足は無いはずだ。お前の心掛けに感心したので首はやろう。しかし私が討ち取った証拠として、金の捻り竹に白熊がついている印は私がもらっておく」
 朝昌は白幌に首を包んで重勝に渡している。(『雑話筆記』)

木村重成の像
東大阪市若江南にある木村重成の像

管理人・・・上記の文章の続きは『今でも庵原家にはその印があると伝わっている』となっています。

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