第四章:船上山の戦い

【船上山を目指す】合戦を決意した長年は近くの要害の地・船上山に立て籠もることを決めた。そこで長重が天皇を迎えに行ったが、急なことで輿を用意していなかったので鎧の上に荒薦を巻いて天皇を背負って船上山に向かった。
 長年は兵糧の用意のために近隣の農家に「倉にある米を一荷持って船上山に運んだものには500文を与える」と触れ回し5〜6千人もの人数に5千石の兵糧を運ばせた。そして館に火をつけて名和軍も船上山に向かった。

鳥取県東伯郡琴浦町にある船上山

【智謀】立て篭もった150騎の名和軍は逆木を打って守りを固めて、白布五百反の旗に近国の武士の紋を描いて隙間なく立て、大軍がいるように見せかけた。1333年2月29日、隠岐守護の佐々木清高らが率いる2000ほどの幕府軍が船上山を囲んだが、旗を見て敵を大軍だと思い攻撃を躊躇していた。そこで名和軍は小勢だということを見破られないように、ときたま遠くから矢を放っていた。

【悪党・名和氏】幕府軍の指揮官の一人、佐々木昌綱は麓で指揮を執っていたが流れ矢が右の眼に当たり戦死してしまった。これで昌綱の部下500は怖気づいて戦意を失った。また別の指揮官、佐々木定宗は800騎を率いて搦手で戦っていたが、なぜか突然降伏してしまった。
 そんな状況を知らない佐々木清高はすでに味方は城に近づいていると考えて一の木戸を突破して攻め立てていたが、日暮れに激しい暴風雨がやってきたので木陰に身を避けた。これは好機だと見た名和長年は優れた射手を率いて攻撃に転じた。幕府軍が大慌てとなったところで斬り立てて攻め立てたので1000騎余りが進退を失って谷底に落ちてたくさんの死傷者を出した。
 名和軍は余勢をかって佐々木清高の館と伯耆守護の糟尾氏の館を攻めて彼らを追い出し、幕府に通じる小鴨氏を討った。

【栄進】この勝利で後醍醐天皇は上洛のために諸国の武士に綸旨を発して兵を集めると、西国中の兵士が集まり船上山の周囲2〜30里は人馬の波で埋まった。
 その功で長年は3月3日には伯耆守に任ぜられ、15日には「君は船、臣は水、船があっても水がなければ大海を渡ることはできない。今より家紋を改めて水に船を遣わす」と家紋をいただいた。そして当時、長年は『長高』と名乗っていたがそれも後醍醐天皇が「長くて高いものは危ない」というので長年と改名した。

(名和氏の家紋)

管理人・・・強いですね、名和長年。10倍以上もの幕府軍を相手に奮戦しています。あと名和軍が船上山を選んだ理由ですが、これは中国地方最高峰の大山と尾根続きになっており、いざって時にそちらに逃げたりしてゲリラ戦をやるつもりだったそうです(今ではその尾根がかなり崩れて渡るのは危険になっています)。

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