第17章:秀吉に対抗(1582〜1583年)

 1582年は近畿の状勢も大きく変わりつつあった。本能寺の変の直後、豊臣秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち織田家で主導権を握りつつあった。秀吉は自身の台頭を快く思わない織田家の重臣・柴田勝家らと対立。長宗我部元親は三好氏を支持する秀吉に対抗するため勝家と手を結ぶ。また親密な関係であった高野山とも秀吉に対抗することで意見が一致している。
 1583年4月、讃岐虎丸城の十河存保を救うため秀吉の家臣・仙石秀久が虎丸城近くの讃岐引田城に上陸したが、長宗我部軍に敗れ撤退した(引田の戦い)。しかし同月、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗北し、居城も落とされ自害している。

1583年頃の大名相関図
大名相関図
UPDATE 2012年6月29日
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