土佐鎌田城攻め

長宗我部軍:吉良親実? 片岡光綱?(三千)
敵:波川清秀(二百五十余)

 1580年3月、謀叛が発覚した波川清宗長宗我部元親の命で阿波海部で切腹させられる。しかし元親はそれだけでは済まさず波川一族の征伐を決める。許されないこと知った波川一族は土佐鎌田城に籠もり、清宗の嫡男・清秀を大将とし征伐軍を待ち構えた。
 同年5月28日、長宗我部軍は鹿舗右近・勝賀瀬越後ら三千が仁淀川を越えて鎌田城の攻撃を開始。波川軍は弓や鉄砲で渡河する長宗我部軍を攻撃したが食い止めることが出来ず、城への侵入を許し全滅している。
 この時、土佐波川城も攻撃されたとの説もあるが、昭和の調査ではそういった痕跡はなかった。清宗の妻で元親の妹・養甫尼がいたために攻撃を免れたと思われる。

高知県吾川郡いの町波川1092の波川本願寺にある波川一族の墓
波川一族の墓
UPDATE 2012年5月18日
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