香西佳清(1561?〜1588年)
官位・通称:伊賀守
名は好清とも。讃岐勝賀城主・香西元載の息子。香西氏は保安年間に讃岐守に任ぜられた藤原家成の息子・章隆が祖といわれる。南北朝時代には北朝の細川氏に味方して大いに活躍。その後も細川氏の有力家臣として功があり、同じ讃岐の香川氏・安富氏・奈良氏と共に「細川四天王」と呼ばれる。
応仁の乱前後に、京都で細川氏を補佐した「上香西」と、讃岐の領地を守った佳清の家系の「下香西」に別れた。上香西家の元長は細川政元を暗殺したことで知られる。
佳清は1568年に元載が戦死したため、下香西家を継ぐ。1570年、陣中で疱瘡にかかり失明。1576年頃、長宗我部元親の讃岐侵攻を警戒し藤尾城を築城する。
1582年7月末、元親の次男・香川親和に攻められる。8月5日に伊勢馬場・西光寺表の戦いで奮戦するが利あらず、翌6日に降伏した。所領を安堵され十河城攻めに加わるが、四国征伐で元親に従ったため領地を失う。佳清は野に下り宗可と号して、讃岐の国主・仙石秀久や生駒親正から扶持を与えられて余生を過ごした。1588年3月8日死亡。
高松市神在川窪町にある佳清の墓
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