●周防 高嶺城
住所: 山口県山口市上宇野令
駐車場:あり
遺構:曲輪、石垣、など
標高:338メートル/比高:300メートル
弘治元(1555)年、厳島の合戦で陶晴賢が毛利元就に討たれると大内義長は元就の来襲に備え当城の築城を開始した。弘治3(1557)年、元就と津和野の吉見正頼が防長に侵攻すると義長は当城に籠城するが未完成だったため、城を捨てて下関に落ち延びるが逃げ切れず功山寺で自害する。
永禄12(1569)年、毛利軍の主力が九州方面に出撃した隙を突いて大内輝弘が大内再興のため周防に上陸。当城を攻撃するが、城番の市川経好の不在に変わって経好の妻が奮戦したため毛利軍の主力が戻るまで落とすことができずに撤退している。
関ヶ原の戦い後、防長2国となった毛利氏は当城を居城にしようとするが幕府に認められず萩城を居城とした。その後、廃城となっている。
(西側は南西~西~北西のブーメラン状に曲輪が続く。写真は南西の曲輪群の一部。縄張図は現地にあったもの)
感想:「こうのみねじょう」と読みます。私はずっと「たかみねじょう」だと思っていました。