富田山建咲院(陶興房の墓)

●富田山建咲院
住所:山口県周南市土井1-5-1
駐車場:あり

 曹洞宗。本尊は釈迦如来像。文明14(1482)年、陶興房が両親の菩提を弔うために建立した。寺号は父・弘護の法名「昌龍院殿建忠孝勲大居士」と母・益田氏の法名「龍豊院殿咲山妙所大姉」から一字を取って建咲院と命名する。開山は、陶氏の菩提寺だった龍文寺(山口県周南市長穂門前)の大悦薫童である。
 弘治3(1557)年、毛利元就は富田地方の大内氏の残党を討つため勝栄寺に滞在した。その際、建咲院の住職・隆室に受戒(仏の定めた戒律を受けること)され、礼として、香合、九条袈裟、血脈袋などを寄進している。
 その後、毛利輝元からの庇護も受け寺領が125石に増えたが、徳山藩が成立すると全て没収された。寛永9(1632)年に8石の寺領を安堵されたものの、寺の維持に十分な収入とはならなかったため、住民への教化活動に力を入れ、檀家の獲得と末寺の開拓を行う。
 元治元(1864)年、第一次長州攻めが始まると、徳山藩の山崎隊が陣屋としたため、末寺の万福寺(山口県周南市須々万、当時は周南市川崎)に移った。その間、本堂では隊士が切腹し伽藍は管理されないまま荒廃するが、明治17(1884)年に再建される。
 寺宝には上記の元就から寄進された香合、九条袈裟、血脈袋、坐具、念珠、瓢形水晶(全て県指定文化財)などがある。

(山門)
山門

山門

山門

(本堂。2008年に行った時は参拝できたのだが・・・)
本堂

本堂

(観音堂。浄法寺の観音堂を寛永5(1625)年に徳山藩主の毛利就隆が移転した)
観音堂

(2008年と2020年の陶興房の墓)
陶興房の墓

陶興房の墓

参考文献:山口県の地名、南陽町誌、新南陽市史、徳山市史 下、現地の案内板、陶の城@周防山口館周南市公式サイト

感想:陶興房の墓に参拝すると、眼下に「とんかつ濵かつ」があるので時間帯によっては食べたくなるのですよね。