高野山史跡巡り2005

【発進!】2005年9月17日、前々から一度は行ってみたかった高野山に向けて出発する。始発に乗るために朝4時半に起きて家を出発>< 近鉄で名古屋から難波まで行き、南海電鉄に乗り換える。さらに極楽橋でケーブルカーに乗り換えて、約4時間半で高野山駅に到着。
 そこから今度はバスに乗り換えて、高野山の入り口である女人堂で降りる。女人禁制だった頃は女性はここまでしか来られなかったらしい。そこから歩いてまずは蓮華定院に到着。門に六紋銭があるが・・・まあいいや。と思って写さずにそのまま下り街中に向かう。このせいでもう一度来なくてはならなくなるのだが・・・。
 そっからぐるぐるといろんな寺院を回って着いたのが金剛峯寺(こんごうぶじ)。真言宗の総本山というとてもありがたいところなのだ。宗教については無知なのでよく分かりませんけど。建物も庭も立派だが、私が見たいのは、豊臣秀次が切腹したという柳の間。そこに行き、みんなが通り過ぎる中、写真撮影・・・。そのあとは一通り回って終了。

(柳の間)

 それからまたいくつかの寺を回った後に着いたのが大門。高野山の西はずれにある入り口にあたる。ここから見る夕日はきれいとのこと。でも雲がかかっていたのであまり気にせず移動する。時間もまだ13時くらいだったし。
 そして着いたのが壇上伽藍。国宝級の建物を写真に写しながらぐるっと回り後にする。

【忠政との出会い】それからまたまたいくつかの寺を回る。その途中の釈迦文院に寄ったときのこと。門の前で掃き掃除をされていた女性の方に「何か用ですか?」と聞かれたので、「ええ、ここが森家の菩提寺だと聞いたので」と答えると、「そうですか。住職さんを呼んで来ますから、聞きたいことがあったら聞いてください」と言われた。ええ~~\(゚o゚;)/ そのまま待っていると住職さんが現れて、中に入れてもらう。「何か調べておられるんですか?」と住職さんに聞かれたので、つい「ええ、森忠政について調べています」と言ってしまう。まあ、嘘じゃあないんだけど。
 それから私は、岐阜県の兼山、長野県の松代、岡山の津山、と忠政の領地を全部行き、お墓も津山と京都の大徳寺に行ったことなどを説明し忠政についての情熱を語る。そうやって言いながら『私は本当に忠政の足跡を辿っているなあ・・・。これなら忠政については森家ファンの人にも負けまい』などと考えていました。そのうち、住職さんの計らいで、位牌まで見せてもらうことに。ここで法名を間違えるという失態を犯してちょっと雰囲気を悪くしてしまったが、まあ素人なので・・・。
 その帰りに住職さんに「忠政だけ調べておられるんですか?」と訪ねられたので、「まあ他にも大坂の陣についてちょっと・・・。そういえば幸村が最初高野山に流されてしましたよね」と話すと、「蓮華定院のことですね」と一言。蓮華定院・・・、あっ、あの六文銭のあったところか! が~、写し忘れた。帰りに寄ろう・・・。
 そして住職さんに何度もお礼を言って釈迦文院を後にする。忠政さん、顔がしもぶくれでも、いつも本などでの紹介で名前の後ろに「森蘭丸の弟」とつかないと誰だか分からなくても、私は好きですよ。あの世でも百段に乗って活躍してください。

【夕日に向かって吠えろ!】その日に行くつもりだったところが終わったので、15時とちょっと早かったが、宿坊(まあ要するに泊まれるお寺ってことです)である高室院(たかむろいん)にチェックインして本を読んでくつろぐ・・・。
 そして17時になった時に外を見ると・・・おお、夕日がきれい。夕日といえば、大門だ、ということでそこまで急いで行って写真を撮影。しかしぎりぎりで間に合わなかった・・・残念・・・TT
 その後、戻って食事をして眠って一日は終了。歩き回ったので本当に疲れた・・・><

(高野山の夕日)

【いよいよメインへ】翌日、ぐっすり寝た私はバスに乗っていよいよメインの奥の院へ。ここは江戸時代の大名を中心に有名人のお墓・供養塔があるところなのだ。入ると、20万とも言われるお墓が並び、さっそく仙台伊達家・宇和島伊達家・筑後立花家の墓所が・・・。おお、と思って写真撮影をしていたが、浮かれていたのもここまで。行けども行けども墓があり、しかも脇道にもあるので、いつまでも先に進まない。2時間経ってもまだ中間地点・・・ーー; しかもしかもこの日は蚊が多く、止まって撮影しようとするとすぐに蚊が寄ってきて刺される(この時期に行かれる方は虫除けスプレーを持参しておいた方がいいですよ)。

(下関のフグ協会だかが建てたふぐの供養塔。なんかインパクトがあったので)

 それから一時間後、ゴールの手前、御廟橋に到着。ここから先は撮影禁止なので、デジカメをしまって橋を越える。春日局・会津加藤家の墓所なんかがあって写したかったけど・・・そういうルールを守らないと、自分のサイトの一部を転載されたときとか文句が言えないしね・・・。
 そしてありがたい弘法大師さんの御廟をお参りした後、帰りに取りこぼしのお墓を撮影して終了。終わったのが午後1時半。実に4時間半もいました・・・。最初は時間を取りすぎたかな、とか思っていたけど、多めに時間を取っておいてよかった・・・。

【真田庵】昼食を取った後、バスに乗って取りこぼしの蓮華定院まで行きちょいちょいと写真撮影をして、再びバスに乗って高野山駅に行く。そこから南海電鉄に乗り、難波を目指す・・・前にちょっと時間があったので、途中の九度山駅で降りる。目的は書かなくても分かると思いますが、真田親子が蟄居していた真田庵です。4年前に一度来ていたけど、写真を取り直ししたかったので・・・。
 歩いて10分ほどで真田庵に着き、ここもちょいちょいと撮影した後、終了。記念に六文銭のキーホルダーを買いました。大阪城天守辺りでも売ってそうな雰囲気だったけどまあいいや。

(キーホルダー)

そして再び南海電鉄に乗って難波に行って名古屋に帰り、今回の旅は終わりました。

【感想など】今回行った奥の院のおかげでサイトに載せる写真はたくさん集まりましたが、なんか裏技っぽくて釈然としないものを感じました。苦労もせず(そりゃあまあ行くのは苦労するけど)、50以上の大名の写真を集めても、なんか価値というかありがたみがないような・・・。
 城好きの人に例えると、どこか一ヶ所に行けば、姫路・広島・名古屋・松本・松江城なんかがダイジェストで見られるみたいな・・・。何でもそうですけど、苦労してこそ価値があるんだと思うんですけどね・・・。
 意味が分からないですよね・・・すいません。
 あと戦国時代に関しては私はすべてのことに関して中途半端だな、とも感じました。お墓巡りをよくするけど、宗派なんかを知っているわけではない(普通、そういう趣味のある方は宗派や風習などをびっちり勉強されてお寺さんに失礼の無いように行くそうです)。城巡りもするけど、ただ何となく行っているだけで、縄張りだとか堀がどうとか分かるわけでもない。かと言って資料も好きだけど、くずし字は読めないし、漢文も苦手・・・。
 私は何がしたいんでしょうねえ・・・。


高野山史跡巡り2005」への9件のフィードバック

  1. 人それぞれの歴史の楽しみ方がありますからね。
    まあ普通だったら・・・・高野山ならともかく、史跡自体行かないでしょうね^^;

  2. 途中でお会いした方は、法名(法号)を書き写した後に写真を撮る、ってことをされていました。
    そうすれば個人が特定できていいんでしょうけど・・・、そこまでする気は私にはありませんでした。
    あれだと一日かかっても終わらないでしょうね・・・。

  3. 高野山だけあってお墓たくさんありますね~
    固まっているのも結構良いと思いますよ。
    その分撮影するのは大変ですが(笑)

  4. 大坂の陣に参加した剣豪ってのが割といますからね。田宮流の開祖とか、宮本武蔵とか・・・。
    やっぱり鎧も着なくなって、刀が中心になりつつあった時代だからでしょうね。

  5. 権之助さんのおられた当時といえば、戦国末期~江戸初期ですねー。
    彼は、関ヶ原当時で数え歳11歳でしたので、大阪の陣当時にも、勿論生きていました。
    古代って、割と普通ですよ~。
    いつの時代でも、人間って基本的に変わらないものなのかも・・・。

    ますます素晴しくなってくる筑後川さんのサイト、楽しみにしておりますね!! ^ ^

  6. >hide@kiさんへ
    よかったですよ! 本当に。
    秀次切腹の部屋は割とメジャーだと思うんですが、森忠政はちょっとマイナーですかね・・・^^;
    真田庵でのお土産、なんでもよかったんですけど、全部微妙だったんですよーー;
    真田もなかが売っていたんでそれでもよかったかな・・・。

    お城や資料は相手がいないからいいんですけど(それでも城でたばこのポイ捨てとかはもちろんだめですが)、お墓は住職さんや、眠っておられる方もおられますからね・・・。
    いい加減なのは問題ありかも・・・。

    >むっそーさんへ
    あの当時って言われると江戸時代初期ですか・・・。大坂の陣以外は分からないですけど、複雑なことが多いんですね・・・。
    あのころって何とか流の開祖の方がわんさかでていますよね。
    話がずれますけど、古代は魑魅魍魎って雰囲気がして近寄りがたいです^^;

    サイトはできる限りやっていきます^^; 最近はちょっと関係ない方に行っていたので、そろそろ軌道修正しないと・・・。
    また見てやってください!

  7. おおっ!! 素晴しい力作ブログですね!!
    ありがたく読ませて頂きました。
    写真もとてもきれいです。
    密度の濃いご研究の旅が出来て、良かったですね。

    いやぁほんと、私も権之助さんの話を書くに当たって、色々調べようとしているんですが、あの当時の事って、解りにくい事が多いですよね。
    古代以上に、入り組んだ資料を、膨大に読まねばなりませんし、
    妙な決まり事とかが、沢山ありますし・・・。

    しかし、筑後川さんは、本当に凄いですね。
    まだまだ、あのサイト、進化していくんですね。
    本当に素晴しいライフワークですね。
    心から応援していますよ!!^ ^

  8. くーっ! いいなぁ高野山。
    秀次切腹の部屋とか森忠政とか、相変わらずコアなセレクトで良いです。
    あー、一度は行ってみたいですねぇ(墓参りダイジェスト的な感は否めないとしても)。

    六文銭キーホルダはかなりビミョーで(笑
    土産物のセンスのなさってどうにかなりませんかね?

    >あと戦国時代に関しては私はすべてのことに関して中途半端だな、とも感じました。

    それを言ったら、オレなんか単なる戦国ファンですよ。
    上っ面の雰囲気だけをかじって知った気になっているだけですもん・・・(汗。
    でもねぇ、ホントそうですよねぇ。お墓参りに行くのに宗派を知らないってのは、戦国云々以前の問題ですから。
    オレも気をつけねば!

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