河原山城(香原山城)の戦い

 よく聴いているポッドキャスト『ひいきびいき』の第081回「夏休み (3) 」の中で自由研究の話をされていたので、お盆の暇な時間を利用して大人の自由研究をしてみました。

○テーマ
河原山城の戦い

○選んだ理由
 大好きな長宗我部元親と少しでも地元で関わりのあるものを調べたかったからです。

○概要
 天正13年(1585年)6月、四国の長宗我部元親と豊臣秀吉の交渉が決裂し四国攻めが開始される。中国地方の大大名・毛利輝元も伊予(愛媛県)に上陸して秀吉を支援した。同年7月、羽衣石(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)城主・南条元続はこの隙を狙い、手薄になった毛利氏の領地・西伯耆(鳥取県米子市・境港市・西伯郡・日野郡)に侵攻し、福頼元秀が守る河原山城を攻略。しかし毛利氏は月山富田(島根県安来市広瀬町)城主・毛利元康らが同城を攻撃し奪い返した。
 これにより伯耆での戦国時代の戦いは終わったとされる。

(城の位置)

○戦いに至る経緯
 永禄9年(1566年)、安芸(広島県西部)の毛利氏が月山富田城の尼子氏を降し伯耆を支配する際、元続の父・宗勝は毛利氏に協力し、尼子氏から奪われた先祖累代の城・羽衣石城に返り咲いている。
 その後も南条氏と毛利氏の良好な関係は続くが、天正3年(1575年)に宗勝が死去し元続が跡を継ぐと毛利氏から離反。山陰に迫ってきていた織田信長の家臣・豊臣秀吉に従い毛利氏と戦う。しかし天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたため、秀吉は光秀と戦うため毛利氏と停戦し近畿に戻っている。そのため孤立した元続は毛利氏の部将・吉川元春に城を追われ、秀吉の元へ落ち延びた。

(羽衣石城模擬天守)

 だが秀吉が織田信長亡き後、近畿・北陸などを抑え勢力を拡大するのに伴い、毛利氏との領地の境界線の話も徐々にまとまり、天正12年(1584年)には羽衣石城が元続の手に戻ったと考えられている。天正13年(1585年)1月には、西伯耆を毛利氏が、東伯耆(八橋城(東伯郡琴浦町八橋)を除く)を元続が領有することが決まった(『羽衣石城攻防戦誌』『尼子氏と戦国時代の鳥取』)。
 このように南条氏と毛利氏は険悪な関係であったものの和睦はしており、一触即発のような状況ではなかったようにみえる。

(伯耆の分割図)

○疑問点
1.では何故戦いは起こったのか?
 この時の西伯耆は不安定な状態にあった。永禄7年(1564年)から西伯耆の要・尾高城(米子市尾高)の城番を務め毛利氏の信頼も篤かった杉原盛重が天正9年(1581年)に死去。その後、盛重の二人の息子である元盛と景盛が争うという御家騒動が起き、天正12年(1584年)までに二人は殺害及び処刑され、尾高城には盛重の娘婿・吉田元重が入っている(『淀江町誌』『戦国時代人物事典』)。この御家騒動で杉原家を去った者もおり、河原山城の戦いでも南条軍の中に元盛の旧臣・坂手新允が毛利軍と戦っている(『陰徳太平記』)。

(鳥取県米子市尾高2003ー1の観音寺に建つ杉原盛重・元盛父子の墓)

 この機に乗じて、天正12年(1584年)8月、元続のもとにいた行松次郎四郎が細木原城(東伯郡琴浦町)に入って西伯耆を窺った。これに対して毛利氏は兵を派遣し細木原城を落としている。行松次郎四郎はかつて尾高城主だった行松正盛の次男で、永禄7年(1564年)に正盛が亡くなった後は尾高城を任せられた盛重に育てられたという。毛利氏としては尾高城を信頼できる者以外に任せる訳にはいかなかったため、城がいつまでも次郎四郎に返還されず不満を募らせていった結果だと考えられている(『因伯の戦国城郭 通史編』『陰徳太平記』『戦国人名事典』)。
 八橋郡(鳥取県東伯郡の西部と西伯郡の一部)も安定していなかった。天正13年(1585年)1月の境界線決定後も八橋城は南条氏が保有していたようで春(1~3月)には、当城から出撃した南条氏と篦津城(東伯郡琴浦町)から出撃した毛利氏の兵が赤崎原(東伯郡琴浦町赤崎)で戦っている。逆に毛利氏も篦津城を占拠しており南条氏の領地と決まった八橋郡から撤退していなかったようである(『因伯の戦国城郭 通史編』)。
 元続が西伯耆の状勢の不安定さにつけ込んで領土拡大の野心を剥き出しにしたこと、八橋郡をめぐる戦い、それが河原山城の戦いに繋がったと思われる。ただし赤崎原の戦いは日付がはっきりしていないため境界線が決まる前の可能性もある。

(八橋城)


2.秀吉に処罰されなかったのか?
 河原山城の戦いが起こった天正13年(1585年)7月は伯耆での境界線が決まった後、しかも毛利氏が豊臣秀吉の四国攻めに協力している最中である。しかし戦後も南条氏は変わらず東伯耆を領有している。
 この戦いは南条氏が西伯耆に攻め込んだと記載されていることが多いが(『西国の戦国合戦』『羽衣石城攻防戦誌』)、矢面に立っていたのは行松次郎四郎で元続は兵を出していない。「正統な後継者が尾高城を取り戻す」という大義名分のもと、次郎四郎とその手勢だけに戦わせている。万が一、秀吉に追求された場合は次郎四郎に詰め腹を切らせるつもりだったのだろう(『因伯の戦国城郭 通史編』)。

3.河原山城はどこか?
 一般に河原山城は西伯郡大山町と米子市淀江町の境にある標高751メートルの孝霊山(正確には標高595メートルの要害山(免賀手))とされる(『鳥取県史2 中世』『大山町の文化財 孝霊山』)。孝霊山は大山との高さ比べのため韓(から)の国から運んできたという伝承があり、韓山→河原(かわら)山・瓦山・香原山などと呼ばれている(『日本歴史地名大系』)。要害山の山頂には幅が10メートルほどの削平地があり、麓には大刀洗川・千人斬など戦いがあったことから付いたと思われる地名が残っている(『大山町の文化財 孝霊山』)。
 しかし『淀江町誌』では「この当時の西伯耆の城は砦のようなものであったから、孝霊山頂に城を構えたと考えるのが無理がある」と疑問視している。もし孝霊山だとすると他の西伯耆の城と比べると、かなり比高のある場所に城が築かれていたことになる。『日本城郭大系』では北東に延びる尾根が二段になった平地だとしているが、それでも比高がある。

(孝霊山と伝・河原山城)

 『宇田川村史』によると地元では「戦国時代、福頼左衛門は北尾村にあった城を固守したが兵糧が尽きたため脱出した。しかし敵に射殺された(意訳)」という伝承があったとの記載があり、内容が河原山城の戦いとほぼ同じである。
 この城は北尾城や北尾要害と言われており、現在の米子市淀江町北尾にある。もし東の大山町から来る敵が山側を通って尾高城に出る場合、大山町所子・長田を経由して妻木晩田遺跡と北尾城の間にある隘路に出て、富繁城(米子市淀江町)を通る必要がある(現在の県道310号などの広域農道を通るような感じである)。そのためには北尾城を落とさなければ先に進むことが出来ないという戦略上重要な場所にあった。近くにある天神垣神社(米子市淀江町福岡)が天正13年(1585年)の兵火で焼けてしまったのを合戦後の同年11月に吉川元長が再建しているのも、この辺りで戦いがあったことを証明している(『淀江町誌』『天神垣神社の説明版』)。

(伯耆北尾城(北尾要害)。右に旧道があったといわれる)

(天神垣神社)

 孝霊山には尾高城に向かう際に落とす必要な場所には無いため、河原山城であった可能性は低い。
 では、なぜ当時の書状にも「伯州河原山之事(『萩藩閥閲録』湯原文左衛門宛小早川隆景書状)」と記載してあるのか。1950年頃まで北尾城の向かいにある妻木晩田遺跡の辺り一帯は西伯郡高麗村(孝霊山は高麗山と表記されることがある)であった。中世も北尾城の辺りは孝霊山の麓という認識だったのではないか。要害山は見張りがいた程度だったと思われる(『大山町の文化財 孝霊山』)。しかし麓の戦いに関する地名は不明である。
 結局、結論は出せなかった。『宇田川村史』の表現を借りるなら「後証を待つべし」と言ったところだろう。


○参考文献
・淀江町誌
・鳥取県史2 中世
・日本城郭大系
・日本歴史地名大系
・因伯の戦国城郭 通史編
・陰徳太平記
・戦国人名事典
・戦国動乱期の伯耆
・羽衣石城攻防戦誌
・尼子氏と戦国時代の鳥取
・戦国時代人物事典
・戦国人名事典
・西国の戦国合戦
・大山町の文化財 孝霊山
・新鳥取県史資料編古代中世Ⅰ古文書編下巻
・宮本家文書

○参考サイト(ブログ)
伯耆国古城・史跡探訪浪漫帖「しろ凸たん」 オフィシャルサイト

感想:地元のことが良く知られてとても楽しかったです。


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