住所:鳥取県米子市久米町
戦国末期、出雲・伯耆の中心地は月山富田城であったが城主・吉川広家は山間部で不便な月山富田城より海に近い場所に城を築こうと考えた。広家が目をつけたのが、良港・米子港のある伯耆の最西端の米子であった。そこで港に近い湊山に城を築いたのが米子城の始まりである。
だが広家は関ヶ原の戦い後、岩国へ転封されてしまう。その後に入ってきたのが、駿府城主・中村一忠である。伯耆米子18万石を与えられた一忠は全国から商人や職人を呼び寄せ、城下十八町といわれる町並みを完成させた。また家臣・横田内膳は加茂川を整備し、外堀にして、九つの寺を均等に設置し支城とする。1609年夏、一忠が死ぬと子がいない中村氏は断絶してしまう(実際は子供がいたのだが、後継ぎとして認められなかった)。
次に米子に入ってきたのが美濃黒野城主・加藤貞泰であった。しかし貞泰は大坂の陣で手柄を立て、すぐに伊予大洲に転封された。
そして次に米子を治めたのが、因幡・伯耆32万石の大名・池田氏である。米子城は家老の荒尾氏が代々預かることなり、米子は殿様のいない城下町となり、関所も設けらなかったことから商業が盛んになった。
明治維新で米子城は士族に払い下げられるが持て余し、米子町(現・米子市)に土地・建物合わせて3500円で売却の話を持ち掛ける。だが、米子町の戸長達は
「米子の財政は維持に年間370円も要するような不生産的な尤物を買い取るほど豊かではない」
と断る。結局は37円で建物は道具屋・山本新助に売却解体された。その後、木材は風呂屋の焚き木にされたという。
(左から池田由之・由之の妻・加藤光泰の墓。清洞院跡(現在は湊山公園)に建つ)
感想:広家と一忠の建てた二つの天守があった城でした。