●名和神社
住所:鳥取県西伯郡大山町名和556(字 長者原)、御来屋(字 東岡山)
駐車場:有り
祭神は名和長年と名和長重など名和一族、そして家臣の河迫義元、荒松忠成ら42名。旧・別格官幣社で、建武中興十五社の一社に数えられる。
承応・明暦年間(1652~58)頃、地元の住民が名和長年を祀るため名和氏屋敷跡に祠を建て氏殿権現と称したのが始まり。延宝5(1677)年、鳥取藩主・池田光仲が北東に200メートルほど行った日吉坂の山王権現の社地に社殿を造営して移した。
明治6(1873)年、県社となり氏殿神社に改称。明治11(1878)年、地元の有力者の尽力と元鳥取藩主・池田慶徳の奏上で別格官幣社(明治神祇制度における神社の格式の一つ。官幣小社と同じ待遇を受ける。明治5年、神戸の湊川神社の創立にはじまり、国家的な功績のあった人臣を祭神とした)となり名和神社に改称される。この時、主祭神の名和長年にそえて名和一族らも祀られた。
名和長年の米蔵跡の地権者だった大山町下市の橋井富三郎が寄進し、明治16(1883)年に現在地に移転される。昭和10(1935)年、名和長年殉節600年祭を記念して明治神宮を造営した角南隆が手がけ拝殿が造営された。神門なども整備され今日の形となる。昭和15(1940)年、紀元2600年の事業の一環で境内が拡張される。
昭和21(1946)年、別格官幣社の制度が廃止された。現在は桜の名所として親しまれている。
(旧道沿いに建つ社号標。徒歩や馬車の際はこれが目印だったのだろう。ここには名和神社ニ代目の宮司・名和顕義と地元の有力者が発起人となって明治36(1903)年に建てられた銅の大鳥居があった。だが大東亜戦争の物資不足で供出され今は跡形もない)
(上記の場所から200メートルくらい登るとある名和駅。明治42(1909)年、名和神社への参拝のため仮乗降場として開設された。昭和26(1951)年に駅となる。後醍醐天皇御着船の標柱がある)
(名和駅から名和神社の坂と参道の桜並木は通称・桜のトンネルと呼ばれている)
(鳥居は米子の豪商だった後藤家が昭和6(1931)年に寄進、「別格官幣社 名和神社」の題字は日本海海戦で活躍した東郷平八郎である)
(参道。春の桜並木は一見の価値有り。三が日も鳥取県最大級の神社ということで参拝客が多い)
(注連柱。大正9(1920)年、鳥取県内の職員や生徒から寄付を集め工事費2,080円で建立された。左右の側面に「發起鳥取懸教育曾」「奉納鳥取縣各學校職員生徒児童」と刻まれ、正面には「義勇」「奉公」の文字が刻まれている)
(神門の左右には奉納した燈籠がある。慶応4(1868)年2月23日、山陰道鎮撫総督の西園寺公望が山陰道鎮撫使と護衛の薩長の兵を引き連れ御来屋に到着。翌日、氏殿権現を参拝した。それを記念して氏殿権現に燈籠が寄進され、その後名和神社に移されている。『名和町誌』には「公望の先祖・公宗は名和長年に殺されているため先祖の仇であった。その長年の祀られる氏殿権現で土下座をして明治維新の成功を祈った」とあるが、500年以上も前の先祖の話が念頭にあったのか疑問である)
(公望に倣って寄進した薩摩藩の隊長・川南東右衛門昌吉と長州藩の隊長・小笠原美濃介恒利の燈籠)
(太鼓楼。鳥取城にあった太鼓を八橋郡(琴浦町全域、大山町と北栄町の一部)の小学校の職員の有志が払い下げを受け、明治11(1878)年に寄進した太鼓が奉納されている。鳥取城にあった太鼓は他に島根県松江市美保関町の美保神社と鳥取県鳥取市の賀露神社にある。現在は特別な時だけ披露される)
(本殿とその裏(南側)。この辺りは米蔵跡で名和長年が船上山に行く際に敵に利用されないよう蔵を焼いた。そのため最近まで焼き米が出てきた)
(明治39(1906)年に地権者だった橋井氏が建てた名和氏倉阯の碑。本殿の裏の林にあるので気付く人は少ないと思う。再建とあったので古い碑があったのだろう)
(本殿の向かって左手にある臣神社。名和長年と家臣200名余を祀っている。立入禁止なので遠くから参拝するしかない)
(昭和7(1932)年に建てられた名和公義擧六百年祭記念植樹の記念碑)
(弓道場。名和長年が弓の名手だったことから造られた。現在も利用されている)
参考文献:名和町誌、鳥取県神社誌、ふるさとを探ろう、鳥取縣神社廳、名和神社公式サイト、鳥取県の地名
感想:数え切れないほど参拝した神社ですが自分なりに調べてまとめたことがなかったので、こうして記事にしてみました。社殿は名和地区にありますが鳥居や参道は御来屋地区にあるため併記しています。