●栂橋・切越古戦場
住所:徳島県美馬郡つるぎ町一宇(字 一宇、字 切越)
天正13(1585)年、豊臣秀吉に降伏した長宗我部軍は阿波・讃岐・伊予から土佐に撤退。阿波脇城主・長宗我部親吉も城を明け渡し200名余りの兵を率いて土佐へと向かい、吉野川沿いから現在の国道438号の辺りを南下し一字山の山道に辿り着いた。その山道は猫も尻込みするほどの難所で猫戻りと呼ばれていた。
一字山には長宗我部元親によって城を落とされた阿波久千田城主・小野寺備中守の息子源六が潜んでいた。親の仇・長宗我部軍が当地を通ることを知った源六と郎党らは栂橋の辺りで待ち伏せ、親吉らが来たところを弓・鉄砲や岩石で攻撃。親吉も討ち取られ長宗我部軍は壊滅したという。
(栂橋のあった辺りの貞光川。現在は橋は架かっていないが当時は丸太の橋が架けられていた)
(栂橋のあった附近に建つ塚。古戦場のことも書いてあったので亡くなった長宗我部兵を供養するために建てられたのであろう)
(塚の向かい側(上記の写真を撮った辺り)に建つ犬の墓。1676年、高清左衛門という猟師がこの辺りで狩りをしていたところ、連れてきていた愛犬が吠え始めた。あまりに吠えるため犬がおかしくなったと清左衛門は勘違いし犬の首を斬り落としてしまう。するとその首は飛んでいき、近くに潜んでいた松と見違えるほどの大蛇に噛み付いた。大蛇に気がついた清左衛門は大蛇を撃ち殺して事なきを得る。その後、斬られてまで自分を助けてくれた愛犬のために清左衛門はこの墓を建てたという)
(栂橋の附近から2キロほど南に下った切越古戦場。この辺りで源六らが長宗我部兵を切り殺したことから切殺→切越と呼ばれるようになった。親吉らが激しく追撃されたことが分かる)
感想:栂橋の場所を教えて下さった「つるぎの宿岩戸」の従業員の方、「そばごや」の店員の方ありがとうございました!! ちなみにその「そばごや」の隣が栂橋跡です。