肥前 高城(諫早城、伊佐早城、亀城。肥前西郷氏と諫早氏の居城)

●肥前 高城(諫早城、伊佐早城、亀城)
住所:長崎県諫早市高城町
駐車場:あり
遺構:曲輪、虎口、武者走り、空堀、土塁
標高:45メートル/比高:5メートル

 楕円形の山に築かれ、周囲は急峻な崖となっており北に流れる本明川が天然の濠の役割をしている。築城年代および築城者は不明。応安7年(文中3年,1374)、南朝追討のために進攻してきた今川了俊が入った船越城を高城とする説がある。文明年間(1469~1487)、三根郡(現在の佐賀県三養基郡の一部)の土豪・綾部氏の分流である西郷尚善が宇木城から高城に移って造築したという(この時、築城されたという説もある)。
 西郷氏は有馬氏に従って勢力を広げていったが、天正5年(1577)に龍造寺隆信が諫早地方に侵攻した際、和議を結んでその傘下に入った。天正15年(1587)の九州攻めで西郷信尚が豊臣秀吉について参戦せず拝謁も行わなかったため、領地を没収され龍造寺家晴が入っている。のちに肥後一揆が起きて家晴が鎮圧に向かった隙を突いて信尚は高城を奪還したが、帰国した家晴に奪回され逃亡した。
 鍋島家を藩主として佐賀藩が成立すると、家晴の息子である直孝は諫早姓に改姓し、以後は諫早家が諫早地方を支配する。高城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。

(城の西にある諫早公園。公園内には諫早の発展に近代から尽力した諫早家を顕彰する碑が建っている)
諫早公園

顕彰する碑

(城の麓には天保10年(1839)に本明川に架けられ、昭和になって移築された眼鏡橋がある)
眼鏡橋

眼鏡橋

(城東の眼鏡橋の南にある大手門跡。場所は下の縄張図を参照)
大手門跡

(折坂虎口。縄張図のU字に折れ曲がっているところである)
折坂虎口

(登り切ったところにある東の丸)
東の丸

(本丸を囲んでいる武者走り)
武者走り

武者走り

武者走り

(南西にある搦手。今は石の通路があるが、昔は堀の上に木橋が架かっていた)
搦手

搦手

搦手

搦手

(主郭部の東にある虎口)
虎口

虎口

(主郭部の東。国指定天然記念物であるクスノキの樹齢は700年前後と推測されている)
主郭部の東

主郭部の東

主郭部の東

(東にある高矢倉跡。諫早市の中心部が良く見える)
高矢倉跡

(主郭部の西にある本丸。竜造寺家の祖先の藤原鎌足を祀る藤原明神、諫早家初代の竜造寺家晴を祀る高城明神、諫早藩主が国家の安泰を祈って建てた亀の塔が建つ。周囲には土塁に見える遺構があった)
本丸

本丸

本丸

(内容と関係ないが、この日の夜に食べたトルコライス)
トルコライス

参考文献:長崎県の地名、日本城郭大系 第17巻、九州の名城を歩く 佐賀・長崎編、長崎県の歴史散歩、長崎県中近世城館跡分布調査報告書2、現地の案内板

感想:諫早公園は花見客がたくさんいましたが、城にはほとんど人が来ていませんでした。
 城には全体が分かる地図と遺構の場所に説明があって初心者にも優しい整備がしてあります。南に空堀や土塁があったそうですが確認するのを忘れていました。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


沖田畷古戦場(二本木神社。龍造寺隆信戦死の地)

●沖田畷古戦場(二本木神社)
住所:長崎県島原市北門町
駐車場:あり(花ぞのパン工房と共有。人気店のため駐められない可能性あり)

 天正10年(1582)、肥前佐賀の大名・龍造寺隆信は勢力拡大のため島原半島に侵攻した。島原の領主だった有馬晴信は、薩摩の大名で北に勢力を延ばしていた島津義久に援軍を要請する。
 天正12年(1584)、義久は弟の島津家久を島原半島に派遣し、有馬・島津連合軍は8,000人前後の兵力となった。対する龍造寺隆信は25,000人前後だったという。天正12年3月24日、森岳(のちの島原城)に布陣した家久に対し、龍造寺軍は山沿い、中央、海岸から攻撃を仕掛けたが、湿地帯で思うように兵を展開できなかったうえ、複雑な地形を熟知していた有馬・島津軍に苦戦を強いられる。山沿いでは勝利したものの、中央を突破され大将の隆信が沖田畷で戦死。龍造寺軍は大敗し、撤退を余儀なくされた。
 二本木神社は竜造寺家の家臣で地元に土着した者たちが、隆信の霊を慰めるために小祠を建立したのが起源とされる。やがて病除けの神として信仰を集め「二本木様」と呼ばれるようになった。現在、神社の建つ一帯が沖田畷古戦場である。

(鳥居と境内)
鳥居と境内

鳥居と境内

(狛犬、拝殿、本殿)
狛犬、拝殿、本殿

狛犬、拝殿、本殿

(令和6年(2024)に移転した龍造寺隆信供養塔。何の案内もない上に神社の案内板には前の場所が記載されたままだったので、ネットで事前に調べておいて良かった。周囲の祠も沖田畷の戦いでの戦死者の供養塔で、市内には同様のものが点在しているらしい)
龍造寺隆信供養塔

龍造寺隆信供養塔

龍造寺隆信供養塔

(神社と向かいのパチンコ店のダイナム。この辺りにはたくさんの龍造寺兵の遺体があったのだろう。ダイナムもパチンコで大負けしてしまった人達の怨念が死屍累々かもしれんが)
神社

ダイナム

(二本木神社近くの有明海と対岸の熊本市。ここからフェリーを使えば熊本市中心部まで40キロで行ける)
有明海と対岸の熊本市

(二本木神社近くの浜辺。現在と海岸線は違うだろうが、この辺りも龍造寺軍が進軍したのだろうか)
浜辺

参考文献:長崎県の地名、長崎県大百科事典、現地の案内板、島津四兄弟の九州統一戦観光庁 地域観光資源の多言語解説文データベース島原市公式サイト

感想:ご存じの方も多いとは思いますが、畷とは「田圃のあぜ道」のことです。
 龍造寺隆信の墓は長崎県島原市寺町の護国寺にもあったそうです。存在を知らなかったので、次回行ってみます。