遠江二俣城(今川家、武田家、徳川家康の城)

●遠江二俣城(城山城)
住所:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
駐車場:あり
遺構:曲輪、堀切、石垣、天守台、竪堀
標高:85メートル/比高:44メートル

 現在では笹岡城、二俣城、鳥羽山城が別々の城として認識されているが古文書には全て二俣城と記載されていた。二俣城(城山城)は北から西にかけて天竜川、東には二俣川が流れている蜷原(になはら)と呼ばれる場所にある。
 今川氏の時代に二俣城と呼ばれた笹岡城の城主・松井宗信は永禄3(1560)年に桶狭間の戦いで今川義元と共に戦死。義元の死により今川氏が弱体化し遠江の世上が不安定になると防備を固めるため当城に拠点が移された。永禄11(1568)年、徳川家康が遠江に侵攻し当城を手中に収めると鵜殿氏長や松井氏に防備を命じている。元亀3(1572)年、武田信玄が遠江に侵攻し当城を落とすと、武田氏の遠江進出の前線基地となり家康の動向を監視する役割を担った。しかし天正3(1575)年、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に武田勝頼が敗れ勢いを失うと、家康は鳥羽山城に本陣を置き当城を攻め城代の依田信蕃を降伏させている。そして大久保忠世を城代とした。天正7(1579)年、当城において家康の長男・松平信康が自害したことはよく知られている。
 天正18(1590)年、家康が関東に移封されると浜松城主となった堀尾吉晴が当地を支配し、当城と鳥羽山城を整備し石垣と天守が築かれたという。関ヶ原の戦い後、堀尾氏が出雲に移封され代わりに浜松城主となった松平忠頼が領したが、まもなく廃城になった。嘉永3(1850)年、天竜川の洪水で堤が壊れた際、本丸の南と西の石垣を利用したため失われたと伝わる。

(二俣城入り口。この先にあるトイレの辺りにセンサーがあり、通り過ぎると音声による城の説明が始まる。2023年に再訪した際は無くなっていた)

(北の駐車場から登ると下記の現況遺構図の四号堀に出る)
四号堀

(北の丸に建つ旭ヶ丘神社。日露戦争以降の戦死者を祀る)
旭ヶ丘神社

(搦手門跡)
搦手門跡

搦手門跡

(本丸。家族連れが記念撮影をしていた。西に天守台があり東に土塁と石垣が残る。本来は本文にあるように本丸全体を土塁が囲っていたという)
本丸

本丸

本丸

本丸

本丸

(天守台の西の曲輪)
西の曲輪

(自信がないが西の丸Ⅲ、だと思う。あとで気が付いたのだが、この辺りは立ち入り禁止だった。皆さんは行かないようにしましょう)
西の丸Ⅲ

(中仕切門)
中仕切門

(二の丸。全体を土塁と石垣が囲っており南に城山稲荷神社が建つ)
二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

(大手門)
大手門

(なんとなく西側に降りてみた。後で知ったのだがこちらも遺構だった。写真の滑り台は西の丸Ⅰの更に西の曲輪だろう)
西の曲輪

(天竜川。大河だなあ。今もかもしれないが、これだけの幅とコースだと暴れ川で地域住民は苦労したことだろう)
天竜川

天竜川

(城域の三号堀まで戻る)
三号堀

三号堀

(南の丸Ⅰ)
南の丸Ⅰ

南の丸Ⅰ

南の丸Ⅰ

(二号堀と南の丸Ⅱ。ここは未整備だったので引き返した)
二号堀

南の丸Ⅱ

(駐車場に行くまでにあった城址碑たち)
城址碑

城址碑

参考文献:静岡県の地名、二俣城跡・鳥羽山城跡総合調査報告書

感想:再訪時は大河ドラマ「どうする家康」放映中だったため、山城なのに駐車場が満車になっていました。

(現況遺構図)
現況遺構図


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