備中 茶臼山城(矢掛町。毛利(穂井田)元清の居城)

●備中 茶臼山城(矢掛町)
住所:岡山県小田郡矢掛町東三成・矢掛
駐車場:あり
遺構:曲輪、堀切、土塁、井戸跡
標高:111メートル/比高:47メートル

 天正11(1583)年、猿掛城主・毛利(穂井田)元清は息子の秀元に城を譲り自身は茶臼山城を築城して移り住んだ。天正15(1587)年、九州攻めに向かう豊臣秀吉が立ち寄った際
「山城はことごとく壊し城は平地に造るように」
 と命じたため地面の区画だけで終わったという。あるいは前年の天正13(1585)年、毛利輝元の命で元清は安芸の桜尾城に移ったという。いずれにしても城は完成しており婿の江木半四郞の居城を拡張したとも伝わり、元清が去った後は城代が置かれた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで毛利氏が防長に押し込められると廃城となる。
 現在は茶臼山文化の丘として整備されている。

(駐車場になっている曲輪1。場所は下の縄張図を参照。奥に見えるのがトイレで右は土塁らしい)
曲輪1

(曲輪1と2の間の段差。切岸か?)
曲輪1と2の間

(曲輪2。鎮守丸と呼ばれ最上位経王大菩薩を祀る社殿がある。法華経の守護神で最上稲荷のことらしいので稲荷の分社だろう。鉄塔もあった)
曲輪2

曲輪2

曲輪2

曲輪2

(曲輪3と書いたが1から続く鎮守丸の帯曲輪らしい)
曲輪3

(曲輪4。この辺りが二の丸らしい。現在は展望台となっている)
曲輪4

(曲輪4の南側。荒れていた。以前は畑だったのだろうか?)
曲輪4の南側

曲輪4の南側

(曲輪5、6、7。7には井戸跡があった。爺ヶ段と呼ばれ江木半四郞が住んでいた場所だと伝わっている)
曲輪5、6、7

曲輪5、6、7

曲輪5、6、7

曲輪5、6、7

(曲輪8)
曲輪8

(昆虫の森になっている南に延びる曲輪群9で通称は三の丸。確かに昆虫がいそうな雰囲気である。石垣は後世のものだろうか)
曲輪群9

曲輪群9

曲輪群9

曲輪群9

(駐車場(曲輪1)に戻って西側を望む。下に流れているのは小田川)
西側を望む

(主郭の曲輪群10。ここにも鉄塔が建っている)
曲輪群10

曲輪群10

曲輪群10

曲輪群10

(北にある堀切A。道路から入った方が楽だが自分は曲輪群10から行った)
堀切A

堀切A

堀切A

(最北端の堀切B。矢掛神社に続く道になっている)
堀切B

堀切B

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊 備中編、小田郡誌 上巻 増訂追補

感想:車で行くと道が狭いため運天が苦手な方は注意が必要です。
 ご覧の通り、公園として整備されているため非常に見学しやすいのですが山城好きの方には物足りないかもしれません。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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美保関灯台(山陰最古の石造りの灯台)

●美保関灯台
住所:島根県松江市美保関町地蔵崎
駐車場:有り

 明治31(1898)年にフランス人技師の設計で建てられた山陰最古の石造りの灯台。大正11(1922)年に電化された。当初は地蔵崎灯台という名前だったが全国に地蔵崎の名称が多かったため美保関灯台に改められる。昭和37(1962)年に無人化された。平成10(1998)年、百周年の記念行事が行われ、同年にはドイツのハンブルグで開催されたIALA(国際航路標識協会)の総会で歴史的・文化的価値のある文化遺産として「世界の歴史的灯台100選」に選ばれた。令和4(2022)年、国の重要文化財に指定される。
 地蔵崎という地名は航行の安全を祈願して多くの地蔵が祀られたことからきている。

(美保関灯台)
美保関灯台

(駐車場付近から見た灯台と日本海)
灯台と日本海

(昭和2(1927)年8月24日に大日本帝国海軍が演習中に多重衝突を起こした美保関沖遭難事件の慰霊碑)
美保関沖遭難事件の慰霊碑

(近くにある沖之御前と地之御前の島は事代主神が魚釣りをするという場所ということで建てられた遙拝所)
遙拝所

(灯台付近から見た伯耆大山)
伯耆大山

感想:近くですがなかなか行くことがなく行った際も適当に見て帰ったので、次回はじっくりと散策してみようと思います。



因幡 狗尸那城(狗屍那城。古仏谷の城。鹿野城の前身?)

●因幡 狗尸那城(狗屍那城。古仏谷の城)
住所:鳥取県鳥取市鹿野町鷲峯
駐車場:不明
遺構:曲輪、土塁、堀切、竪堀
標高:352メートル/比高:260メートル

 当地区は16世紀まで譲伝寺の前身・抱月寺があったためか古仏谷と呼ばれている。明徳2(元中8,1391)年の明徳の乱で敗れ亡くなった山名満幸の三男・三重郎幸康が家臣に連れられ鷲峯山に隠れ住み、12歳になった1402(応永9)年に築いたという。やがて幸康の後裔は陸上村(岩美町陸上)に移り住むが、狗尸那城には山名弾正(幸康の一族との関係は不明)が残り守備する。『因幡誌』には弾正が小畑高尾城主・嶋崎氏と戦って互いに消耗していたところを亀井茲矩に攻められ落城したとある。その後、茲矩が狗尸那城と名付けた。
 鳥取県埋蔵文化財センターなどの調査によると狗尸那城は茲矩が築いた現在の鹿野城の前身・鹿野古城ではないか、尼子再興戦や織田・毛利戦争において荒神山城勝山城などに対峙するための城だったのはないか、などの説がある。鹿野から三朝町の三徳山方面に抜ける道の近くにあることから重要な場所だったことは間違いない。
 近世になると古仏谷が鳥取藩の山林を管理する御山奉行が居住地となり、鷲峯村と鷲峯神社の飛び地の領地との境にあったことから藩の関係者以外は入山禁止となった。そのため『因幡誌』の編者で医者の阿陪恭庵は入れなかったため詳細な情報を得られなかったが、藩が主導した『因伯古城跡図志』には詳細な記載がある。

(山道を歩いていると出てくる曲輪群1とその先にある堀切A。場所については下の縄張図を参照)
曲輪群1

(堀切B)
堀切B

堀切B

(曲輪2。主郭だろう)
曲輪2

曲輪2

(Cの竪堀群と横堀群)
Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

(Dの箇所。竪堀に見えたが何なのか良く分からなかった)
Dの箇所

参考文献:鳥取県の地名、鳥取県中世城館分布調査報告書第1集(因幡編)、因幡誌 卷六 (因伯叢書) 、わたくしたちの鹿野、戦国の因幡武田と鹿野城

感想:鳥取県内では近年、一番話題になった城ではないでしょうか。
 ここで教えてもらいながら縄張図を初めて描いたのですが、それっきり描いてないです。せっかく教えてもらったので活かさないと、と思いながら数年が経っています。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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