●草苅家祖鎮魂之碑
住所:岡山県勝田郡奈義町馬桑
駐車場:なし
美作の矢筈城主・草刈景継は毛利氏に従っていたが、天正6(1578)年に織田信長への内通が発覚し毛利氏によって切腹させられる。草刈家は弟の重継が跡を継ぐが、景継の息子・景久は草刈家に残った。天正13(1585)年、毛利輝元と豊臣秀吉の和議が正式に決まると草刈重継は美作を退去する。だが景久は郎党と共に美作に残り因幡との国境付近の木地山で帰農した。
慶長10(1605)年、津山藩主・森忠政の援助で因美を往来する旅人のために茶屋を建てる。しかし明治17(1884)年に津山藩から援助がなくなり、やがて茶屋は廃業。草刈家は昭和26(1951)年に南の集落に転居し、昭和46(1971)年に釣り堀「ひらめの家」を開いたが平成6(1994)年に廃業している。
(平成3(1991)年に子孫が建てた鎮魂之碑。横には由緒が書いてある)
(碑の裏の山が木地山だと思って撮影したが反対側だったらしい。まあこの辺りも旅人が通ったのだろう。北側に難所の黒尾峠があるが現在はトンネルが通っており、歩いても鳥取県八頭郡智頭町に行けるくらいの距離にある)
参考文献:現地の案内板、作州のみち 1 (峠・木地師の道)、美作誌 前編 (東作誌)、津山瓦版
感想:トンネルと碑の間に駐車スペースがあります。
「明治17(1884)年に津山藩から援助が・・・」と書きましたが、この頃は廃藩置県後なので岡山県から援助があったのでしょう。