●備中 正霊山城
住所:岡山県井原市芳井町吉井(字 東吉井)
駐車場:なし
遺構:曲輪、掘切、竪堀
標高:109メートル/比高:45メートル
北から東にかけて小田川が流れ、天然の濠となっている。南東では小田川と宇戸川が合流し、水運の要衝となっていた。現在は麓に井原市役所の芳井支所があり、広島県神石郡と岡山県高梁市の分岐点となっていることから、陸運の要衝である。当時も同様の状況だったと考えられる。
築城年代は不明だが、有井城主であった藤井好重が築き、息子の藤井皓玄が城主になったと伝わる。皓玄は神辺城主・山名忠興の家臣であったが、弘治3(1557)年に忠興が跡継ぎがいないまま亡くなって同じ家臣の杉原盛重が毛利氏の意向で神辺城主となったことに憤慨し、正霊山城に籠もって毛利氏に反抗した。だが毛利軍が迫ると京都に逃亡。
同じく京都で浪人となっていた尼子家の山中鹿介幸盛や立原久綱らと知り合い、永禄12(1569)年に幸盛らが尼子再興戦を開始すると呼応して神辺城を奪取する。しかし九州から戻ってきた毛利軍に神辺城を奪い返され、皓玄の息子・広吉が守備していた高屋城も落とされた。皓玄も御嶽山(笠岡市)の麓で戦死している。
(主郭から芳井支所方面を望む。戦国時代は街道や河川の往来が見えていたのだろう)
参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊 備中編、古城物語 (郷土史文庫 第4巻) 、現地の案内板
感想:永禄12(1569)年に藤井広吉も戦死しますが、息子の利道は生き残り三村親成に仕えます。のちに浪人時代の水野勝成が成羽に寄食した際に知り合い、利道の娘の香源院(於登久)を側室として迎えています。香源院は二代藩主の水野勝俊を産んでいます。
また利道の息子で香源院の兄である好直は、勝成が備後福山藩主になると重臣となっています。