●肥前 山田城
住所:長崎県雲仙市吾妻町栗林名(字 城)
駐車場:あり
遺構:曲輪、空堀、堀切、櫓台
標高:30メートル/比高:19メートル
応安5年(文中元年,1372)、豊後大友氏の一族で山田荘の地頭であった田原氏能によって築城されたと伝わる。同年、北朝に属していた氏能は山田城と野井城で南朝の攻撃を防いだ。文中3年(応安7年,1374)頃、九州探題の今川了俊は島原半島の南朝勢力を制圧するため、たびたび山田城に在城している。
文明元年~長享2年(1469~1488)にかけて有馬氏の家臣である山田兵部が城主を務めた。天正12年(1584)に沖田畷の戦いで龍造寺軍が敗北すると島原半島にも島津氏の影響力が及び、島津義久の家老の上井覚兼は、川上忠智・山田有信・伊地知重秀・八木昌信と共に諫早市森山町に入り「山田之城」を検分している。慶長19年(1614)、有馬氏が宮崎県延岡市に移封されたため廃城になった。
(北側にある駐車場と展望台。眺望が良いため、当時も見張り台があったのだろうか。場所は下にスクロールするとある縄張図を参照)

(展望台の南の曲輪。石積みがあったが遺構なのだろうか。公園として整備されているため左右が平坦になっているが、当時は丘のようになっている曲輪だけだったのだろう)

(南端の曲輪。物見櫓の跡だと推測されている。現在は稲荷神社が祀られている)

(名前は分からないが東を流れる川。ここからも公園まで徒歩で登ることができる)

(麓の川沿いにある水分(みくまり)神社。祭神は水波能売神と菅原道真)

参考文献:長崎県の地名、長崎県の歴史散歩、日本城郭大系 第17巻、長崎県中近世城館跡分布調査報告書2、吾妻町史、現地の案内板
感想:展望台近くまで車で行けて公園になっているため「どうせ大した遺構もないだろう」と思っていたのですが、予想より遙かに遺構が残っていました。公園までの道が狭く運転には注意をした方がいいです。
城に行った時、近くの「あそか保育園」から園児達の楽しそうな歌が聞こえていました。
















