●肥前 寺中城(三会城、三江城)
住所:長崎県島原市中野町1481周辺(字 城ノ鼻)
駐車場:なし
遺構:曲輪、空堀
標高:14メートル/比高:7メートル
北に中野川、南に寺中川が流れ東で合流して目の前の有明海へと注いでいる。二つの川は天然の濠と役割を果たしていた。
築城年代、築城者は不明だが、島原氏の家臣の和泉左京が在城していたと伝わっている。 天正11年(1583)頃には有馬氏の城になっていたが、龍造寺隆信が侵攻し奪取した。天正12(1584)年3月23日、龍造寺軍の船50艘が味方する島原氏救援のため島原城への入城を試みたが、敵対する有馬・島津連合軍の船に阻まれて寺中城に移動している。その際、島津軍が寺中城に進軍し城門にまで達したものの、龍造寺軍は城内に逃げ込んだため本格的な合戦には至らなかった。だが、島津軍は城下で行われていた市を襲撃し、物資を略奪し民家を焼き払っている。この日に隆信が寺中城に滞在していたともいわれる。
翌日24日、沖田畷の戦いで龍造寺軍が敗れると、島津軍に攻められ降伏した。その後、城は有馬氏には返還されず島原城とともに島津氏の支配下に置かれたが、天正15年(1587)の九州攻め後、再び有馬氏の手に戻った。
慶長19年(1614)に有馬氏が移封されると大村氏らが預かることになり、寺中城には大村氏の代官が入って周辺の土地の政務を行っている。
(城の南西側。場所は下にスクロールすると出てくる縄張図を参照。ここに城門があったように見えるが、龍造寺軍が船から城に入ったということは有明海の海岸線が今より西側にあって、そこにあった城門から上陸したのだろう)
(北東の曲輪から有明海を望む。下の畑も曲輪に見えるが違うようだ)
参考文献:長崎県の地名、長崎県中近世城館跡分布調査報告書、島津四兄弟の九州統一戦、日本城郭大系 第17巻、有明町史 上巻
感想:駐車できる場所がなくて難儀しました。
城は見てもらった分かる通り畑になっています。農作業の邪魔や農作物を荒らさないようにしましょう。