●日向 高鍋城(財部城、舞鶴城)
住所:宮崎県児湯郡高鍋町南高鍋 (字 旧城内、宮田前)
駐車場:あり
遺構:曲輪、石垣、土塁、掘切、濠
標高:69メートル/比高:65メートル
町指定史跡。東に塩田川、南に宮田川が流れ天然の濠として役目をしていた。築城年代には諸説あり古代からという説もある。
中世以降、財部(たからべ。小丸川より南の現在の高鍋町を中心とした地域)を所領とした財部土持氏の居城となった。長禄元(1457)年、小浪川の戦いで財部土持氏が伊東祐尭に敗れ滅亡し以降は伊東氏が所有し落合氏が城主となる。天正5(1577)年、伊東氏が島津氏によって没落すると島津氏の家臣・川上忠智や鎌田政心の城となり、高城・耳川合戦では争奪戦の舞台となった。
天正15年(1587)年に筑前から秋月種長が移封され当地と串間(櫛間)を与えられると、最初は櫛間城を居城としたが慶長9(1604)年に高鍋城に移る。以降は明治維新まで秋月氏が城主となっている。慶長12(1607)年には西側との繋がりを断つため掘切を設けた。寛文9(1669)年、江戸幕府から修築の許可が出た際に名前を財部城から高鍋城に改めている。
現在は舞鶴公園として整備され高鍋町歴史総合資料館も建てられている。
(本丸の東の踊り場に建つ戊辰戦争殉難招魂之碑。場所は下にある縄張図を参照。戊辰戦争で官軍として戦った高鍋藩の霊を慰めるため建立された)
(本丸の西を上がったところにある曲輪。北側の石垣が見事だった)
(護国神社と上記の間にある曲輪。曲輪の段差を利用して作られた滑り台が時の流れを感じさせ哀愁を誘う)
(山頂の北にある曲輪。秋月氏が来る前の二の丸だったのだろうか)
(西の曲輪と堀切を見に行こうと思ったが荒れていて危険そうだったので止めた)
(城内の駐車場近くに建つ舞鶴神社。祭神は品陀和気命や土持直綱など。城内七箇所に分けて祀られていたが明治維新後に合祀される。ここが高鍋藩があった頃の二の丸になる)
(三の丸。現在は高鍋農業高校が建っている。ここに濠の一部が残っていた。大手門跡の標柱に行く木橋が不安定で怖かった)
参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編、現地の案内板
感想:指定史跡の基準が分からないですが、町の指定ではなく県か国の指定史跡のような見所のある城でした。駐車場があり比高もなく気軽に見られる良い城ですが、残念ながら詰の丸まで登ってくる人は皆無でした。せっかく整備されているのに勿体ないです。