●日向 須木城(鶴丸城)
住所:宮崎県小林市須木下田(字 唐池)
駐車場:あり
遺構:曲輪、土塁、石垣、空堀、虎口
標高:402メートル/比高:35メートル
肥後との国境に近い位置にあった。東の綾南ダムができる以前は、東西と北を本庄川が流れ、天然の濠の役割を果たしていた。肥田木城、庚申(荒神)城、松尾城、名のない四つの区画があり、総称して須木城と呼ばれている。
築城年代は不明。南北朝時代、肝付兼重が三股院高城(月山日和城)から逃げて籠もっており、その頃にはすでに存在していた。戦国時代には伊東四十八城の一つとなり伊東家の家臣・米良一族が須木郷の領主となっている。天文年間(1532~55)頃には米良尾張守が須木郷から野々美谷城に移り、永禄10(1567)年頃には米良筑後守が小林城に入り、須木郷の支配は筑後守の甥の米良長門守が任された。
元亀元(1570)年、肥後の相良氏が伊東氏に味方して須木要害(須木城のことと思われる)に来たという噂が島津義弘の耳に届いている。元亀4(1573)年には米良筑後守の弟の米良美濃が須木の領主となっていたが、伊東義祐によって領地の一部を取り上げられたため、島津義弘に寝返った。その後、再び伊東義祐の領地に戻ったようだが、天正4(1576)年に高原城が落ちると須木城も放棄され、島津家の宮原筑前守が入城している。
廃城の時期は不明だが、その後も須木郷は島津家(薩摩藩)の領地として肥後の人吉藩などとの境(八方境)として重視された。
(肥田木城。場所は下の縄張図を参照。この先に、ままこ滝展望所があったのだが道が崩れて通行止めになっていた。城は曲輪があるだけの単純な構造に見えたが、防御が厳重な詰めの城らしい)
(庚申城。土塁と虎口があった。土塁の横にあったのが荒神さんかな)
(松尾城の南の二つの曲輪。この城は普段、居住するための場所らしい。曲輪の一角が駐車場になっていた。土塁があった)
(昭和22(1947)年12月5日の須木下田地区の航空写真。中央が須木城で庄内川が西から北を通って東に流れているのが分かる)
参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編
感想:空堀に圧倒されました。地元の城に詳しい方に「宮崎県の城では独立した曲輪は城という」と教えてもらいました。実際に他の宮崎県の城でも一つの城に○○城がいくつもありました。
西に500メートルほど行った一麟寺跡に木崎原の戦いで亡くなった米良筑後守重方の墓があり、首桶が須木総合ふるさとセンターで展示されているそうです。