●日向 志和池(しわち)城
住所:宮崎県都城市上水流町
駐車場:不明
遺構:曲輪、堀
標高:151メートル/比高:13メートル
築城年代、築城者は不明だが永享年間(1429~41)年の頃の城主は高木氏だったと伝わる。文安5(1448)年に高木殖家が島津忠国に殺されると忠国の弟の系統が城主となったという。
明応3(1494)年、北原氏が伊東氏の援軍と共に志和池城を攻めると島津忠常が城を捨てたため、北原氏の城になる。その後、志和池城は北原氏、伊東氏、北郷氏、島津氏の争奪戦の舞台となり幾度も攻防戦が行われた。天文12(1543)年、北郷氏の攻撃により志和池城は落ちている。
文禄4(1595)年、都城が島津家の家臣・伊集院忠棟の領地となると志和池城に居住した。慶長4(1599)年に忠棟が京都の伏見で島津忠恒に殺害されると忠棟の子・忠真は島津家に反旗を翻す(庄内の乱)。忠真は志和池城を領地を守る12の外城の一つとして重視し整備して、島津軍も忠真の本拠地・都城を攻める橋頭堡にしようとしていた。島津軍は志和池城に攻撃を加えると共に島津忠恒が南西に陣を構え(森田陣)、補給路を絶つ作戦に出る。伊集院軍は包囲を突破して兵糧を入れるなど抵抗したが、やがて食糧が尽き慶長5(1600)年には開城している。これを切っ掛けに他の城も落ちたため、忠真は徳川家康の仲介により忠恒に降伏した。元和元(1615)年の一国一城令で廃城になったという。
本丸、二丸、小城、西拵、新城から城が構成されていたが、大方は宅地開発などで失われている。
(内ノ城。場所は下の縄張図を参照。縄張図の右上の二つ曲輪がある箇所で正方形の箇所は墓地になっている)
(内ノ城の北西にある中ノ城。写真の一枚目は城の守護神として祀られた荒神らしい。二枚目は近世の藩の役所である仮屋跡で、近代には志和池村役場が置かれた)
(内ノ城や中ノ城の北西の住宅地にある蓮池(児玉池)。志和池の名の由来になった池で、志和池城主だった島津忠尭が、この池に因んで志和池と名付けたとも、雲林寺の僧が「志の和することこの池のごとくあれ」と言ったのが由来とも伝わる)
(蓮池の北にある雲林寺跡。廃仏毀釈によって廃寺になっている)
(内ノ城や中ノ城の北に位置する新城。西にある道路の辺りは堀らしい)
参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編、「不屈の両殿」島津義久・義弘、現地の案内板
感想:新城の東側に堀が残っていたらしいのですが見逃しました。