聞法山日枝寺三徳院(島津義弘の勝利に貢献した盲僧の寺)

●聞法山日枝寺三徳院
住所:宮崎県えびの市栗下909-1
駐車場:あり

 天台宗。本尊は地神と荒神。市指定文化財。以前は盲僧寺だった。盲僧(めくらそう。もうそう)とは目の見えない僧のことで、琵琶を伴奏し地神経や荒神経を唱えて祓いを行う盲僧を地神盲僧と呼んでいた。

 戦国時代、肥後の聞法山光明院の僧・良音院が馬関田(まんがた。現在のえびの市中央の西寄りの地区)に移り住む。そこで布教活動をしていた弟子の南学院明心に当地で光明院を復興させ聞法山三宝院に改号した。南学院明心の次の住職・真盛(菊一。明久)は島津義弘から加久藤城や飯野城に呼ばれ祈祷や占いを命じられる。
 永禄12(1569)年の菱刈合戦では島津義弘の乗馬が前脚を折るという夢を真盛に占わせたところ、
「大吉です。馬が膝を折れば人歩となるため戦は勝ちます」
 その占いを聞いた義弘は歓喜したという。
 元亀2(1572)年の木崎原の戦いでは間者となって小林城に潜入して伊東軍の動きを知らせ勝利に貢献した。これらにより日向の十四郷の盲僧を束ねる日州盲僧の司となる。真盛は三宝院という号が醍醐天皇ゆかりの京都の三宝院と被ることから三徳院に改号した。
 近世には3石の寺領があったが明治の廃仏毀釈で寺号を失い祓戸神社に改称したが、明治9(1876)年に信仰の自由の政令が出された後に三徳院に復している。昭和43(1968)年、宗教法人になった。

(入口と参道)
入口と参道

(境内)
境内

境内

(歴代住職の墓。中央に開基の明心と二世の真盛の墓が建つ)
歴代住職の墓

(本堂)
本堂

(道を挟んだ林にあった石仏)
石仏

参考文献:宮崎県の地名、加久藤町郷土誌、宮崎県えびの市観光協会、現地の案内板

感想:真盛が菱刈合戦の勝ちを占った話ですが飫肥の常楽寺の覚書に以下のように記載されています。
「弓馬で鎌田刑部左衛門の取次で真盛は島津義弘に召し出された。そこで義弘が夢のことを話すと真盛は勝利間違いなしと申し上げた。義弘は間違いないとはどういうことだと尋ねたところ、真盛はお召しの軍馬が足三つを折った夢は愛馬の足が折れたので勝利は疑いなしと申し上げた(意訳)」
 肝心の勝利間違いなしの理由が全く意味が分からなかったです。
 三徳院に参拝した時は前の道で工事をしており片側交互通行だったため常に渋滞していました。



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