日向 佐土原城(伊東義祐の隠居城。島津義久の日向支配の拠点)

●日向 佐土原城
住所:宮崎県宮崎市佐土原町上田島
駐車場:あり
遺構:曲輪、竪堀、虎口、土塁
標高:73メートル/比高:64メートル

 国指定史跡。鎌倉時代に伊東祐時の子・祐明が田島に下向した頃に築城されたと言われているが、その真偽は不明である。応永34(1427)年、本家の伊東氏が田島氏を滅ぼして入城した。永禄11(1568)年頃、伊東義祐の隠居城となり、息子の義益が都於郡城を居城としている。
 天正5(1577)年、島津義久の攻勢に耐えかねた伊東義祐は佐土原城を去り、豊後の大友宗麟を頼って落ち延びた。天正6(1578)年の高城・耳川の戦いでは島津義久が入城し、根白坂に向かっている。戦後、義久の弟・島津家久が入り、日向支配の拠点となった。
 天正15(1587)年、豊臣秀吉が九州攻めを開始すると、豊後から豊臣秀長の軍勢が日向に攻め込み佐土原城も包囲される。やがて島津義久が秀吉に降伏すると包囲が解かれるが、その直後に家久が死亡。息子の豊久が跡を継いだ。
 慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで豊久が戦死し宮崎城を落とした伊東軍が佐土原城を攻めようとしたが、攻め込まれる前に終戦となっている。その後、一時的に徳川家康の直轄地となるが、交渉の結果、慶長8(1603)年に島津以久が佐土原領を継ぐことになり佐土原藩が成立した。
 寛永2(1625)年、以久の息子の忠興は広大な佐土原城の管理に困難を感じ二の丸に藩庁を移す。以降、御家騒動などはあったが明治維新まで島津家が佐土原城の城主であった。

(二の丸跡に建つ宮崎市佐土原歴史資料館。年末に行ったので閉まっていました)
宮崎市佐土原歴史資料館

(下の縄張図の東にある大手道を通ってⅥの曲輪を目指す。一人ずつしか進めず狭いため前や左右から敵に攻撃されたら、たまらんかったと思う。土砂崩れの修復でブルーシートや立入禁止箇所が各所にあった)
大手道

大手道

大手道

大手道

(Ⅵの曲輪)
Ⅵの曲輪

Ⅵの曲輪

(Ⅷの曲輪(松尾丸)を目指すが、ここだけ荒れていた。入り口には何もなかったが、もしかして立入禁止区域だったかもしれない。道にイノシシの糞があった。遺構は竪堀や虎口があった)
Ⅷの曲輪(松尾丸)

Ⅷの曲輪(松尾丸)

Ⅷの曲輪(松尾丸)

Ⅷの曲輪(松尾丸)

Ⅷの曲輪(松尾丸)

(Ⅷの曲輪)
Ⅷの曲輪

Ⅷの曲輪

(ⅤとⅥの曲輪の間にある掘切)
掘切

掘切

(御殿のあったⅤの曲輪(南の城)は土砂崩れで立入禁止になっていた)
Ⅴの曲輪(南の城)

(曲輪Ⅰの東にある曲輪)
東にある曲輪

東にある曲輪

(曲輪Ⅰの入口にある虎口)
虎口

(曲輪Ⅰ(本丸)。北西には天満宮があったようだが・・・)
曲輪Ⅰ(本丸)

曲輪Ⅰ(本丸)

曲輪Ⅰ(本丸)

曲輪Ⅰ(本丸)

曲輪Ⅰ(本丸)

(曲輪Ⅱ。天守台があったらしい)
曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

(曲輪Ⅲ)
曲輪Ⅲ

(曲輪Ⅰ、Ⅱの東にある曲輪群の手前側)
手前側

(上記から東に進むと中の道に出る。虎口にあった門跡には人工的に彫られた穴があった)
中の道

中の道

中の道

中の道

(中の道を進むと佐土原出土文化財管理センターに出る。今は閉鎖しているらしい)
佐土原出土文化財管理センター

(麓には代官所跡などがあった)
麓

麓

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編、宮崎県の歴史散歩、みやざき文化財情報、国史跡佐土原城跡パンフレット

感想:他の目的地から離れており行かないつもりでしたが、時間ができたので寄りました。寄っておいて良かったです。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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