日向 野尻城(島津義久・義弘及び豊臣秀長が滞在した城。伊東四十八城の一つ)

●日向 野尻城
住所:宮崎県小林市野尻町東麓(字 野首)
駐車場:駐車スペースあり
遺構:曲輪、土塁、空堀、井戸跡
標高:166メートル/比高:19メートル

 市指定史跡(井戸跡のみ)。北から東にかけて城之下川が流れている。南北が400メートル、東西が800メートルという広大な城域である。
 築城時期、築城者は不明だが南北朝時代には既に築かれており、暦応2(延元4,1339)年に肝付兼重が野尻城に籠城している。戦国時代になると北原氏が所有していたが永禄4(1561)年頃には伊東氏の城になっており福永丹波守が城主だった。天正5(1577)年、伊東氏が徐々に島津氏に押されると福永丹波守は島津氏に内通。島津軍を城に招き入れている。天正6(1578)年9月、大友宗麟軍が日向に侵攻してくると島津義久・義弘兄弟は野尻城に入り敵に備えている。
 天正15(1587)年、九州攻めで島津義久が降伏すると島津義弘は野尻城に布陣していた豊臣秀長と対面し降伏した。

(井戸跡。ここに居館があったらしい)
井戸跡

(井戸周辺の曲輪。下の縄張図にある上部の広い曲輪がそれにあたる)
井戸周辺の曲輪

井戸周辺の曲輪

(縄張図の中央にある入口。車で入れるのはこの手前まで。入口付近に倒木があるので荒れている予感がする)
入口

(曲輪の間にある空堀が道になっている。これは南東方向に向かっている(縄張図は北が右))
空堀

空堀

(土橋)
土橋

(南に向かっている竪堀)
竪堀

(三郭。縄張図だと中央と左下の大きな曲輪に挟まれている場所)
三郭

三郭

(上記と左下の大きな曲輪の間にある空堀)
間にある空堀

間にある空堀

間にある空堀

(左下の大きな曲輪の西側の曲輪や空堀をうろうろした)
うろうろ

うろうろ

うろうろ

うろうろ

うろうろ

(左下の大きな曲輪。竹藪になっており直ぐに引き上げた)
左下の大きな曲輪

左下の大きな曲輪

(中央の大きな曲輪)
中央の大きな曲輪

中央の大きな曲輪

中央の大きな曲輪

中央の大きな曲輪

(上記の左(南)にある曲輪。ここも藪だったので、ほとんど見ていない)
南にある曲輪

南にある曲輪

(中央の大きな曲輪の西にある方形の曲輪。この辺りに曲輪を駐めた。正規の駐車場ではないため駐めて何があっても自己責任でお願いします)
西にある方形の曲輪

西にある方形の曲輪

(東から見た全景と城之下川)
全景

城之下川

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、「不屈の両殿」島津義久・義弘

感想:時間があったのでネットで検索して行ったのですが、戻って調べると重要な事件が何度も起きた城だと知り驚きました。
 ここで令和7(2025)年では初めて山城で人と会いました。南東の曲輪にも行こうと思ったのですが藪がひどくてやめました。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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