●日向 新納院高城
住所:宮崎県児湯郡木城町高城 (字 高城、永山)
駐車場:あり
遺構:曲輪、掘切、土塁
標高:65メートル/比高:28メートル
南の小丸川、北の切原(きりばる)川に挟まれ舌状に突出する台地に築かれている。建武2(1335)年、島津忠宗の子・時久が新納院(児湯郡の一部と日向市の一部)の地頭職を得て新納姓を名乗った頃に築かれたという。観応の擾乱が起こると足利尊氏に属した時久の居城だった新納院高城が、足利直義に属していた畠山直顕に攻められ落城した。この戦いに財部土持氏も参加したようで、その後は財部土持氏が城主だったようである。
だが康正3(1457)年の小浪川の戦いで財部土持氏が伊東氏に敗れ、新納院高城は伊東氏の手に渡った。天正5(1577)年、日向に侵攻してきた島津義久の軍勢が伊東氏を駆逐すると当地の地頭・野村源五らは降伏し開城したため、義久は家臣の山田有信を入れる。天正6(1578)年の高城・耳川の戦いでは主戦場となり大友宗麟軍の攻撃を受け本丸だけの状態となり食糧や弾薬も不足して落城寸前にあった。やがて島津軍の援軍が到着し大友軍を撃退して事なきを得ている。。
天正15(1587)年の九州攻めでは豊臣秀長を大将とした大軍が豊後から南下し日向に侵攻してきた。新納院高城は毛利輝元や宇喜多秀家などの軍勢に囲まれ落城寸前だったが、島津義久が豊臣秀吉に降伏したため開城している。
平成時代の調査で戦国時代の物と思われる陶器、土師器、壺などが出土している。
(全景。木城町役場の後ろに見える模擬天守が模擬櫓で手前が小丸川)
(本丸にある新納観音。高城・耳川の戦いで戦死した兵達の供養塔として平成5(1993)年に建てられた)
(模擬櫓から南側を望む。中央に流れているが小丸川で、全景を撮った場所と向かい合っている形になる)
(水分神社の西にある駐車場に戻る。永山古墳があった。ここが曲輪だったかどうか不明。第六空堀も全く分からなくなっていた)
参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編、木城町公式サイト、しまづくめ
感想:落城しなかった難攻不落の城として知られていますが、南北朝時代に落城し天正年間も危ういところで助かっておりイメージと違いました。
城内に広い駐車場があり説明の標柱も随所あり地元では大切にされているようです。