●日向 宮崎城(池内城)
住所:宮崎県宮崎市池内町・上北方
駐車場:なし
遺構:曲輪、空堀、掘切、土塁、土橋
標高:97メートル/比高:72メートル
南北方向に連なる丘陵上に位置し宮崎平野が一望できる。築城時期、築城者は不明だが、建武2(1335)年に南朝方の図師随円・慈円父子が宮崎城で挙兵し北朝方の土持宣栄に攻められ落城している。その後、土持氏一族の県伊東氏が城主だったが、文安3(1444)年都於郡城の伊祐祐尭に攻められ落城し落合彦左衛門尉が入った。
戦国時代には伊東氏の城の重要拠点である「伊東四十八城」の一つとなり、永禄11年(1568)年には肥田木勘解由左衛門尉(肥田木越前守)が城主だったという。天正5(1577)年に伊東氏が日向を追われると、島津義久が領有し島津忠朝や上井覚兼が城主になった。
天正15(1587)年の九州国分で高橋元種が所有することになり家臣の権藤平左衛門尉種盛が城主となる。慶長5(1600)年9月の関ヶ原の戦いでは日向の飫肥城主に返り咲いていた伊東氏が東軍について、西軍についた高橋元種の宮崎城を家臣の稲津掃部助重政が攻撃し権藤平左衛門尉を討ち取り10月に入城した。だがこの時、既に元種は東軍に寝返っており同士討ちだったため後に返還されている。元和元(1615)年の一国一城令で廃城となった。
明治時代にできた宮崎県と宮崎市の地名は宮崎城周辺を中心とする一帯からきている。
(入口。門がかなり年季が入っている。ここで上井覚兼が城主だった期間に「上井覚兼日記」が書かれたことから、説明板もそこに力を入れていた。詳しいことは上井覚兼日記をご覧下さい)
(曲輪Ⅵの北にある服部城。SNSで宮崎県は独立した曲輪群を城と呼ぶと教えてもらった。なので別の城がある訳ではなく連携しているようだ。遺構は土橋、土塁、掘切があった。掘切は危ないので降りていない)
(おまけ。令和7(2025)年の元旦の朝一番に行った城だったので、ここで初日の出を見た)
参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編、宮崎公立大学、現地の案内板
感想:駐車場がないので困っていたら近所の方が「ここに駐めていいよ」と言われ、御言葉に甘えて駐めさせてもらいました。ありがとうございました!