日向 清武城(伊東四十八城の一つ)

●日向 清武城
住所:宮崎県宮崎市清武町加納甲
駐車場:駐車スペースがあるが可否不明
遺構:曲輪、空堀
標高:81メートル/比高:30メートル

 清武川の北岸に位置し、当地は古くからの水運の拠点として利用されていたようである。築城年代、築城者は不明。延文6(正平16,1361)年、清滝城の凶徒が曾井城を攻めた際、土持八郎らが忠節を賞せられているが、この清滝城が清武城にあたるといわれる。城主は清武氏だったが、文安年間(1444~49)に伊東氏の城となり清武氏は家臣となった。
 戦国時代には長倉伴九郎と上別府宮内少輔が城主を務めたが、元亀3(1572)年の木崎原の戦いで両者とも島津義弘との戦いで戦死する。天正15(1587)年の九州攻めの後、島津義久によって日向を追われた伊東義祐の次男である祐兵が10年振りに日向の一部を治める大名として復活し、清武城も伊東氏の手に戻った。清武城は川崎駿河守祐長が城主となるが、失脚すると稲津掃部助重政が城主になる。その後、川崎駿河守祐長が城主に返り咲き元和元(1615)年の一国一城令で廃城になった。

(本丸。場所は下の縄張図を参照)
本丸

本丸

(本丸から道を挟んで南の曲輪)
南の曲輪

南の曲輪

(本丸の西の曲輪群)
西の曲輪群

西の曲輪群

西の曲輪群

西の曲輪群

西の曲輪群

(丸の北東の曲輪から丸の内に降りるところ。虎口?)
虎口

(丸の内とその東と南の曲輪群)
丸の内

丸の内

丸の内

丸の内

丸の内

(南西の曲輪群。稲荷神社が建っていた)
南西の曲輪群

南西の曲輪群

南西の曲輪群

南西の曲輪群

(南西にある空堀。一部は生活道路になっているようだ)
空堀

空堀

空堀

空堀

(宮崎自動車道の南にある曲輪)
南にある曲輪

(住宅のある本丸の南(城域の東)の曲輪群)
本丸の南(城域の東)の曲輪群

本丸の南(城域の東)の曲輪群

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編

感想:空堀は遺構として良かったですが、他は畑を見て廻っているような感覚でした。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について