●稲津掃部助重政・雪江の墓
住所:宮崎県宮崎市清武町加納甲1003
駐車場:不明
市指定史跡。稲津掃部助重政(天正2(1574)~慶長7(1602)年)は伊東家の家臣で、朝鮮出兵では伊東祐兵に従っている。慶長3(1598)年に25歳で清武城を預けられ家老となり、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは敵対していた西軍側の高橋元種の宮崎城を攻め落とした。だが、この時点で元種は東軍に寝返っており同士討ちとなってしまう。
主君の祐兵が病死し幼少の祐慶が伊東家の当主になると家内で孤立。慶長7(1602)年、宮崎城攻めの責めを負わされ切腹を命じられたが、納得できない重政は拒んで清武城に籠もったため伊東軍に攻められ自害した。
(稲津掃部助重政の墓。板碑には重政の没年の慶長7(1602)年10月18日「卍 機庵道活坐」の他に妻の雪江妙盈大姉などの名前が刻んである。かつては東向き(海側)だったが伊東氏が納める飫肥藩の船が沈むのは重政の祟りだということになり西向き(山側)に変えられたという伝承がある。昭和2(1927)年頃は台座がなかったが、その後に設置された)
参考文献:宮崎県の地名、宮崎県の歴史散歩、清武町史、宮崎市公式サイト、現地の案内板
感想:非業の死を遂げた人物で地元では有名だと聞き参拝しました。