伊集院源次郎忠真の供養塔

●伊集院源次郎忠真の供養塔
住所:宮崎県小林市野尻町東麓(字 夜川松)
駐車場:あり

 市指定史跡。慶長4(1599)年、伊集院忠棟が伏見にて島津忠恒によって殺害されると、その子・忠真は島津家に反旗を翻した(庄内の乱)。慶長5(1600)年徳川家康の仲介により忠真は島津家に降伏したが、肥後の加藤清正と通じているなどの良からぬ噂が絶えなかった。そのため、忠恒は忠真を討つことを決める。
 慶長7(1602)年8月17日、上洛の途上で野尻に滞在中、忠恒は鷹狩りを催し、その最中に家臣に命じて同行していた忠真を殺害させた。同日、忠真の母・弟らも悉く殺された。麓村(東麓地区)では8月17日に火災が続いたため忠真の祟りだということになり弔恤(ちょうじゅつ。死者を弔い、その死を哀れむこと)を行ったところ鎮まったと伝わる。

(全景。この境内を地元の方は「お塔頭(オタッチョ)」と呼んでいるらしい)
全景

(伊集院源次郎忠真の供養塔)
供養塔

(押川治右衛門の供養碑。治右衛門は鉄砲の名手で白い馬に乗った忠真を暗殺するように命じられていたが、忠真が島津家の家老の子の平田新四郎と馬を取り替えていたため、白い馬に乗った新四郎を誤射してしまう。そのため責任を取って治右衛門は自害している)
押川治右衛門の供養碑

(誤射されて亡くなった平田新四郎の供養碑。上記と新四郎の供養碑は治右衛門の一族である押川則貞が慶長8(1603)年に建立した)
平田新四郎の供養碑

野尻城にあった忠真の家臣らの墓石を集めたもの)
忠真の家臣らの墓石

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県の歴史散歩、小林市公式サイト

感想:有名な方なので参拝しました。駐車場は現地で知って急いで車を動かした記憶があります。