●土佐 蛸の森城(下田城)
住所:高知県南国市稲生(字 鮹ノ森)、南国市十市(字 塚ヶ谷)
駐車場:蛸の森トンネル付近に駐車スペースがあるが駐車して良いか不明
遺構:曲輪、掘切、竪堀、土塁
標高:144メートル/比高:117メートル
城主は下田駿河守と伝わっている。下田氏は山田(大中臣)氏の分流で文明年間(1469~87)頃に当地に土着し、蛸の森城を築いたと推測されている。
『土佐物語』によると、下田駿河守は介良城主の横山左京亮らとともに長宗我部国親に対抗していた。しかし天文16年(1547)(天文18年(1549)とも)に左京亮が国親に降伏。それを知った駿河守は激怒し徹底抗戦の構えを見せた。
「城を枕にして討死する」
そこで国親の家臣の久武肥後と福留隼人が出撃しようした際、隼人の前に老尼が現れ願い出た。
「私は下田の百姓の妻です。夫亡き後は息子を頼りに生活をしていましたが、年貢が納められないため、息子は駿河守に殺されてしまいました。私自ら城内に手引きし、落城させ息子の供養としたいです」
この話を隼人から聞いた国親は老尼に3人の兵をつけ、城内に侵入させた。そして兵が火を放ったところに隼人の軍勢が攻め込み城は炎上。駿河守は胸に矢を受けて死期を悟り、猛火に身を投げて果てる。弟の七郎左衛門は城から脱出し大岩に隠れたが、長宗我部軍に見つかり奮戦の末に自害した。
(しばらく登ると北東の掘切に出る。場所は下にスクロールすると出てくる概略図を参照)
(上記の先にある尾根。当たり前だが、ここを切るために掘切が掘られた)
(掘切3。三重の掘切があった。掘切2もだが、急角度の切岸が良好な状態で残っており上り下りに苦労した)
(曲輪5。尾根に小規模な掘切と曲輪があった。その先は自然地形)
(山頂部にある主郭の曲輪1。その周りを一段低い曲輪2~4が囲んでいる。土塁があった)
(内容と関係ないが山城を降りて食べた夕食の台湾ラーメンと台湾炒飯)
参考文献:高知県の地名、土佐の山城、高知県南国市中世城館跡、十市古事考、土佐物語
感想:迷いやすいとのことでしたが、GPSログのお陰で往復で迷うことはありませんでした。
以前は北西の隅に井戸があったということでしたが、今は分からなくなっています。