平成20年5月1日、いよいよここから折り返し地点で東に向かうことになる。とにかく今日は長宗我部な一日になりそうだ。
55:土佐久礼城・・・高知県高岡郡中土佐町久礼にある。長宗我部氏の家臣・佐竹氏の居城。
久礼中学校の裏にあるので、事前に学校の許可を取っておいた。この日は平日だったので学校の生徒に捕まって「一緒に行きたい、行きたい」とごねられたが、二時間目の授業があったので先生に連れて行かれた。
城は登り口から行ってはみたものの途中で草が多すぎて道が分からなくなり諦めた。時期が悪かったな。
56:常賢寺跡・・・高知県高岡郡中土佐町久礼にある。佐竹氏の菩提寺。跡なので建物は残っていないが佐竹義直逆修五輪塔がある。
この周辺は道が狭く常賢寺跡のすぐ近くはさらに狭いので車で行かれる方は気をつけてください。
57:姫野々城・・・高知県高岡郡津野町姫野々にある。津野氏の居城。独立した豪族で一時はなかなかの勢力を誇ったが、一条氏・長宗我部氏との戦いに敗れ、最後は元親の三男・親忠を養子とした。
総合福祉センター・里楽の裏にあるということで、里楽で正確な山の場所を聞いたところ「登る人間が長いことおらず危険だ。やめておいた方がいい」と言われ、ここも麓から撮影して終わった。
58:乗台寺・・・高知県高岡郡佐川町甲1746にある。長宗我部氏の重臣・久武氏の菩提寺。
ここには長宗我部軍が伊予に侵攻した際、土居良清との戦いに敗れ、戦死した親信の墓があると本に書いてあったので行ったのだが、石碑には弟の親直の名前が書いてあった。親直は長宗我部家改易後に亡くなっているからここに葬られたとは考えにくいし、同じ内蔵助だから混同されたのだろうか。それとも本当に親直の墓・・・?
59:土佐松尾城・・・高知県高岡郡佐川町甲松尾山にある。久武家の居城。ここでも近所の方に正確な場所を聞いたら「誰も登っておらず道が危険でマムシも出るからやめておきなさい」と注意されたので麓の松尾八幡宮まででやめておいた。
60:吉良神社・・・高知県土佐市蓮池にある。戸次川の戦いで長男・信親を失った長宗我部家に後継者問題が持ち上がった際、元親の方針に反対して自害させられた吉良親実を祀る神社である。自害後、親実の祟りが噂されたため、怒りを鎮めるために建てられた。
これで親実の怨念が本当に鎮まったんだろうか・・・?その後の長宗我部氏の滅亡も親実の怨念? 場所は蓮池城の麓にあたる。
61:蓮池城・・・高知県土佐市蓮池にある。大平氏の居城だったが、長宗我部元親の土佐統一後は、吉良親実が城主となった。現在は城山公園となっており、遺構はあまり残っていない。
写真を何枚か撮影すると天気も良くなかったので急いで立ち去った。
次に正念寺という長宗我部盛親の家臣・山本磯之進が大坂落城後に開基したというお寺に行こうとしたが、時間の都合で中止した。
62:土佐朝倉城・・・高知市朝倉丁にある。長宗我部家の宿敵・本山氏の城だったが、元親の猛攻撃で落城。高知市の中心からそんなに離れていない場所にあるが、遺構は良く残っている。
だが、やはり時間がなかったので、駆け足で廻って(本当に山道を走った)早々に立ち去った。
63:毛利吉成の墓・・・高知市中秦泉寺にある。毛利吉成(勝信)は豊臣秀吉の古くからの家臣で元小倉城主だったが、関ヶ原の戦いで西軍についたために、山内家に預けられ土佐で亡くなった。息子の毛利勝永は大坂の陣で土佐を抜け出し徳川家康を追い詰めるほどの活躍をしている。
お墓はとても分かりづらい場所にあり、見つけるのはかなり大変。また吉成の墓の周りには毛利氏の重臣で、のちに山内家に仕えた杉氏の墓がある。
これで史跡巡りは終了。知り合いと会う約束があったので、市街地に戻り、数時間ほど話をした後、別れた。
そしてそのまま高知市内のホテルに行き、やっぱりすぐに寝た。
感想:長宗我部な一日でした。どこに行っても好きな武将に関する史跡があるって幸せ・・・。天気が悪かったのは残念だったが、致し方あるまい。9日間の旅行で、毎日晴れているなんてことはないだろうし。
高知県、聞いてはいたけど、どこも山深いなあ・・・。本当に山陰とそっくり。明日も長宗我部な一日を過ごします。
>koeさん
いえ、墓地の中だった記憶があります。行くのも大変な山の中という訳ではなかったような・・・。
墓参できることを祈っております。
tikugoさま
詳しいレスどうもありがとうございます!!
勝信の墓……なんだか、獣道の途中とかにありそうな気配ですね。。。
まずは、『高知県の歴史散歩』にあたってみたいと思います。
>koeさん
初めまして。
毛利勝信の墓なんですが、実は案内していただいたので覚えていないんですよ・・・。住宅街の中を通って山の中腹にある民家に駐めさせていただいた後に階段を登っていた記憶はあるのですが・・・。
次に行けと言われても無理なくらいあやふやです。『高知県の歴史散歩』に大体の場所は載っていたと思います。
杉氏については現地の方に教えていただいただけで、本で確認した訳ではないと思います。山内関係の史料には載っていると思いますが・・・。
いい加減な返信で申し訳ありません。何しろ3年も前のことで、はっきりしたことは忘れました。やはり自力で行かないと記憶に残らないものですね。
はじめまして~。
毛利勝永とか、勝信とか検索かけてたら、ここに辿りつきました。
勝信の墓、行ってみようかと考えているんですけれど、
どの山道?から入ればいいんでしょうか?
中秦泉寺って、寺の名前じゃなくて、地名なんですね……。
あと、家臣の「杉氏」って知らなかったんですけれど、どの本に載っていたりしますか??
ぜひ、教えてください。
>きちさまさん
秋山直国は存在すら知りませんでした。最近、大坂の陣とは離れてまして・・・。
長岡興秋の墓があるんですね。熊本に行く機会がありましたら、寄ってみます。
いろいろと情報ありがとうございました!
豊臣方の秋山直国はご存知でしょうか?慶恩寺に墓があります。ネットで検索すればすぐヒットします。
熊本県五和町の芳証寺には、長岡興秋の墓があります。生延びたという説があり、墓石には「寛永19・6・15薨」とありました。墓石正面に戒名「長興寺殿慈徳宗専大居士」とあります。
毛利吉成の墓は分かりづらいですよね。途中、案内板がある訳でもないですし。
明石全登の墓に関してはお役に立てたようで何よりです。
毛利勝永の墓はこの時に私も行きました。ただ史跡と言うよりは個人の方のお墓っぽかったので、何かあるといけないと思い、写真を載せるのは辞めておきました。
年末に、毛利吉成の墓に行ってきました。わかりにくかったため、1時間くらい探してしまいました。山の昇り口もわかりにくかった。。
この日誌のおかげで、五台山と香美市香北町白石の明石全登墓も、簡単に見つけることができました。
あと、土佐市波介板谷の「毛利勝永夫妻墓」にも行ってきました。。
>岩兵衛さんへ
伊予・讃岐の一部は降伏せず四国内で抵抗していたという説は私も聞いたことがあります。
ただ縁戚関係があり、四国征伐の直前まで援軍を送ってもらっていた毛利氏に敵対したということは、河野氏自体は長宗我部氏の支配下にあったのでしょう。
記憶だと、豊後に近い佐田岬辺りの国人が長宗我部軍に抵抗して伊予一国の支配は完全じゃなかった、という説だったと思います。
親直もある意味、長宗我部家のごたごたの犠牲者かもしれませんTT。
四国の史跡巡り楽しく読ませていただいてます。
よく、本やネットで長宗我部元親は四国を統一していなくて伊予の河野氏が最後まで抵抗していたという説を見ますが、どうだったのでしょう?
河野氏が長宗我部元親に降伏していないのなら、四国征伐の時に小早川軍の味方をして伊予に少しでも領地をもらえるのではないかと思うのです。
滅んでしまったという事は、四国征伐の時には河野氏は長宗我部方だったのかな?と単純に考えてしまいました。
久武親直は主君の元親を凄く大切にしていたとも思います。だからこそ盛親擁立のゴタゴタや、責任、汚名を全部かぶったような、ちょっと気の毒な感じがします。
長宗我部な一日はよかったですよ!
お仕事の都合などで難しいとは思いますが、高知市周辺以外も是非。
親直はファンからも、そうじゃない方からもいい印象をもたれていないですよね・・・。詳しく調べていないので、はっきりしたことが分かりませんが・・・。
「長宗我部な一日」・・いいですね(^v^)
私も、香川から高知へ抜けるときに山がすごいな~と思ってました。
・・・。あと、私も親直ってあまりいいイメージを持ってないんです。
本当はどうだったのでしょうか・・・。(ーー;)
久武親直はかなり評判の悪い武将ですよね。
これは長宗我部ファンじゃなくて、本を読んだり学芸員の方の話を聞いての私の勝手な意見です。他の長宗我部ファンの方と親直について話したことがないので・・・。
長宗我部氏は四国征伐後、拡大路線じゃなく現状維持となった上に度重なる無意味な出兵(九州・関東・朝鮮半島)もあり、家臣達にかなり不満がたまっていました。その鉾先を元親に向けるわけにはいかなかったので、信任の厚い側近の親直に向けたんじゃあないでしょうか(石田三成や本多正信のように)。
言われるように無礼な態度や間違った策を取っていたこともあったかもしれませんが、親直は親直なりに長宗我部家のことを考えていました。
事実、関ヶ原の戦いで長宗我部家が改易になった後も、親直は長宗我部家再興のために動いています。
結局、組織って言うのは調子の悪い時、スケープゴートがいないとやっていけないってことなんでしょう。
そうですよね。親直は高知で死んだわけじゃないですから、混同されたのかもしれませんね。
ところで、一般的に親直は、主家を滅ぼした奸臣扱いされていますが、長宗我部ファンにとって、彼はどういう存在なんですか?
兄の親信が「お取り立てなきよう」と言ったとか、親実の怨霊で身内が死んだとか、いかにもなエピソードもあるので、滅亡の原因を求めたがる人には都合の良い存在なんだろうとは思いますが、元親が重用し続けていたり、加藤家に召し抱えられたりしてますし、それほど悪い人でもないような気がします。
僕は長宗我部家の内情はほとんど知らないので、その辺のことを是非聞きたいなー、と思いまして。