四国一周史跡巡り(5日目:宇和島城・宿毛城・土佐中村城・立石摂津守の墓)

 平成20年4月30日、明日から暫定税率復活でガソリン代が上がるので、今日がGW期間中でガソリン代が安い最後の日である。

43:宇和島城・・・愛媛県宇和島市丸之内にある。現存天守があることで知られている。築城の名人・藤堂高虎によって築かれた。その後、宇和島伊達家の居城となって明治維新を迎えている。
 行く前に「しょぼいから期待しない方がいいよ」と知り合いから言われていたけど、実際に行ってみるとなかなかの規模の城だったぞ。おそらく天守だけを指して言ったのだろう(その天守もそんなにしょぼいとは思わなかったけど)。

 宇和島城が終わってガソリンを入れてもらっている時に「高知県の四万十市に行きたいんですけど、山越え(国道381号)と海岸沿い(国道56号)どっちがいいですか」と聞くと、「山越えルートは一度通ったことがあるが苦労したわ」とのことだったので、遠回りでも海岸沿いに行くことにした。それなら宿毛市に寄れるしね。
 海岸沿いで正解だった。景色が綺麗・・・。いよいよここから高知県である。

44:宿毛城・・・高知県宿毛市松田町にある。一条氏が滅んだ後は、長宗我部右衛門大夫が城主として入った。現在は石鎚神社となっており、当時の石垣が一部残っているのみ。
 特筆すべきものは何もなかったので、写真を撮ってすぐに去った。

45:藤林寺・・・高知県宿毛市平田町にある。土佐一条家二代目当主に当たる房家の墓がある。この人が長宗我部国親を保護してくれたおかげで、長宗我部家は再興することが出来た。
 お墓は身分の高い人だったにも関わらず簡素。京都にもお墓があるのだろうか・・・。

46:お雪の供養塔・・・上記の藤林寺の道を挟んで向かい側の水田の中にある。お雪は長宗我部元親によって土佐を追われた一条兼定の愛妾で、兼定が土佐から逃れる際に絶望して川に身を投げて亡くなったらしい。
 のどかな水田の中に案内板もなくぽつんとあった。

47:渡川古戦場・・・高知県四万十市渡川1丁目にある。失地回復を狙う一条兼定と、長宗我部元親が戦った有名な場所。四万十川橋のたもとの児童公園に碑が建つ。
 碑がある児童公園が分かりづらかった・・・。本でもサイトでもほとんど紹介されていなかったので。


48:土佐中村城・・・高知県四万十市中村にある。土佐一条氏の家臣・為松氏の居城。遺構はほとんどない。公園として整備されており、模擬天守の資料館がある。
(模擬天守から見た四万十市内。どういう事情があったのか知らんが、四万十市という名前になぜ変えたのか分からん・・・。中村市の方が良かったのに)

49:一条教房の墓・・・中村城の麓にある。土佐一条家初代当主。中村の基礎を築いた。現在の墓は江戸時代に教房を慕う人々によって再建されたものらしい。
 ここは道が狭く車を停める場所が無くて苦労した。墓は薄暗い林の中にあるので、デジカメをオートにしているとフラッシュが勝手に炊かれるので気をつけましょう(お墓でフラッシュを炊くのは失礼かな、私が勝手に考えているので)。

50:一条神社・・・四万十市中村本町にある。一条家の御所内にあった一条家の廟所跡に建てられた。土佐一条氏が祀られている。
 商店街の入り口という賑やかな場所にあったのが意外だった。ここで社務所の方から土佐一条氏についての説明を受けた。やはり最後の当主・一条政親は存在そのものが疑問視されているらしい。

51:太平寺・・・高知県四万十市右山元町にある。最初に断っておくが、一条氏や長宗我部氏とは関係はない(中村城の支城としての役割はあったようだが)。雲居がいたということで来てみただけ。
 特に雲居関係のものは見あたらなかったので本堂などを撮影してすぐに去った。

52:立石摂津守の墓・・・土佐清水市にある。立石摂津守は一条家の家臣で後見役を務めた武将。最後は一条家が混乱の末に長宗我部家の庇護を受けることになってしまった責任を感じて自害した。
 ここは場所がさっぱり分からんかった!布松ヶ鼻という地区にあるということで、その地区にあった郵便局や近所の人に聞き回って何とかたどり着いた。

53:加久見五輪塔・・・高知県土佐清水市加久見町にある。加久見氏は一条家の重臣で、一条家滅亡後は長宗我部家に仕えた。しかし朝鮮出兵で当主が亡くなり、領地を没収されている。
 行く途中にビニールハウスの前で宴会中のご家族に道を聞いたら、その中の「加久見氏のことはわしがよう知っとる。子孫じゃ」というおじさんに捕まった。しかし酔っていて言っていることが分からず、適当な理由をつけて去った。家族の他の人も「捕まって可哀想に」という顔をされていたので、問題なかっただろう。

54:三崎香仏寺・・・高知県土佐清水市三崎にある。ここには加久見最後の当主・加久見宗清と妻の墓がある。
 ここも分かりやすい場所にあるとは言えなかったな。

 これで史跡巡りは終わったけど、せっかくここまで来たので足摺岬に行ってみた。でも、曇っていたせいか、そんなにいい風景にも見えず、がっかりしてホテルのある四万十市に戻った。

疲れていたので、食事したらすぐ寝た。

感想:昨日、今日行く予定の宇和島市の史跡を先に廻っておいたので「今日は時間も余ってホテルでゆったりだなあ」とか油断していたら、宇和島市~四万十市~足摺岬の距離が半端じゃなくて、結局ホテルについたのは夜。
 四万十市の方は今でも一条家への畏敬の念が強く、長宗我部氏は土佐西部を侵略してきたというイメージが強いようだ。
 ああ、あとブームに乗って最後にガソリン満タンにしておいた。別にどこのガソリンスタンドも混んでなかったけどなあ・・・。

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四国一周史跡巡り(5日目:宇和島城・宿毛城・土佐中村城・立石摂津守の墓)」への2件のフィードバック

  1. 東海は南北朝の時代から続く中世的な考えを捨てたおかげで発展できたので、非難があるのは仕方がないにせよ、そこを壊した元親はやはり良くも悪くも土佐の革命児ですね。
    結局、室町時代は相手を完全に滅ぼさない農耕民族的(日本的)な考えをずるずる引きずったせいで安定政権を築くことが出来なかったのですから、何を言われようと一条家を支配下に置くことを実行した元親は一歩進んでいたんでしょう。ただお飾りとはいえ、一条家を残したところに限界を感じますが・・・(一条家を立てることで他県での支配を容易にしようとした説有り、です。一応付け加えときます)。

    宇和島城は立派ですよ。石垣の積み直しは分かりませんが、見る限りでは当時のままのも結構ありました。これでまた藤堂高虎の城コンプリートに近づきましたよ^^;

  2. 背に腹はかえられないという事情があったにせよ、恩義のある一条氏を攻め滅ぼした元親、やはりただ者じゃあないです。
    近畿や東海ならともかく、当時の四国(特に土佐)では思いもしないことじゃないですか?

    宇和島城!
    僕は、しょぼかろうとなんだろうと、現存天守であるということに価値を見出したいですね。
    石垣も組み直したりはしていないんですか?

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