兵庫県史跡巡り2010(1日目後半:福良港・高麗陣打死衆供養石碑・養宜館跡)

7.福良港・・・南あわじ市福良甲。四国征伐の際、羽柴秀長・秀次がここから阿波の土佐泊に上陸している。碑などは特にない。
感想:大型遊覧船『咸臨丸』でうずしおを見られるが興味がなかったので乗らなかった。ここは長宗我部ファンより秀長ファンが来そうだな・・・というかどちらも来ないよな。


8.叶堂(かなど)城・・・南あわじ市松帆古津路。読み方は「かのど」とも。1595年、三原郡が豊臣秀吉の直轄地となり代官・石川氏が入った。石川氏は志知城に代わる城として叶堂城を築城。しかし石川氏は関ヶ原の戦いで西軍についたため改易されすぐに廃城となっている。近くの感応寺には叶堂城の石垣の石を積み直した上に碑が建っている。

(こちらは城のあった場所に建つ城趾碑)


9.高麗陣打死衆供養石碑・・・南あわじ市松帆江尻。江善寺内にある。脇坂安治が朝鮮出兵で連れて行って亡くなった江尻浦出身の水夫を供養するために遺族が建てた碑。
感想:住宅街の中に入り込んでえらい目にあった・・・。


10.志知城・・・南あわじ市志知字松本。鎌倉時代に築かれたといわれる。野口氏の居城だったが、1581年に羽柴秀吉の淡路攻めで野口氏は阿波に去り、黒田如水が入って長宗我部軍に備えた。1585年、加藤嘉明が入ったが1595年に嘉明が伊予に移封される。その後に来た石川氏が叶堂城を築城しそちらに移ったため廃城となった。
感想:地図で見ると本丸だった場所が昔の濠に囲まれているように見える。ここはいろいろと苦労した。まず車を停めるところが見つからず、車が停められても城の入り口が分からずうろうろ。城趾にある畑に行くための板橋を渡ってやっと碑に到着した。しかも蚊に刺されるし。

(板橋。この沼は当時の濠だと思う)

(碑)


11.養宜(やぎ)館跡・・・南あわじ市八木養宜中191。淡路守護・細川氏の館。1519年、三好氏によって滅ぼされるまで淡路の中心だった。


 本日はこれにて終了。ホテルに行ってさっさと寝た。

本日の感想:島って言うから信号もほとんど無いようなところかと思ってた。徳島市や神戸市に近いのにそんな訳ないよね・・・。失礼しました。

写真の提供についてはこちらをクリック


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA