備後大可島城(南北朝時代の古戦場)

●備後大可島城
住所:広島県福山市鞆町鞆10
駐車場:なし(鞆の浦の観光用有料駐車場を利用)
遺構:なし
標高:16メートル/比高:14メートル

 大可は「おおが」又は「たいが」と読む。古くは「たいが(漢字は同じか?)島」と呼ばれていた大可島に築城された。伝承では天正~慶長年間初期(1573~1600年)の鞆城築城で陸続きとなった(海流の変化説あり)。
 康永元(興国3、1342)年、北朝方の細川頼春が伊予川之江城の土肥氏を攻めた。南朝方の伊予勢は救援に向かった金谷氏、土居氏、得能氏が海上を航行中、伊予に向かう北朝方の備後勢と戦闘になり風の関係で鞆の浦に流されそのまま攻撃し大可島城を占拠する。その後、南朝方の伊予勢は退去し桑原重信の一族が守ったが落城した。これが契機となって足利直冬が中国探題として山陽の要衝・鞆の浦に派遣され大可島城を拠点とする。戦国時代には村上水軍の拠点の一つとなり足利義昭の警固をしたという。
 現在建つ円福寺は慶長15(1610)年頃に移転された。近世には大可島城跡と鞆の浦の間の道越町は遊郭街になっている。円福寺は「いろは丸事件」で紀州藩の宿舎となった。

(石段)
石段

(本堂)
本堂

(祠)
祠

(宝篋印塔)
宝篋印塔

(別の石段の途中にあった鳥居。上記の祠と関係があるのだろうか?)
鳥居

(北朝方の軍勢に攻められ戦死した桑原一族の墓)
桑原一族の墓

(大可島城跡から見た瀬戸内海)
瀬戸内海

(鞆城から見た大可島城跡(中央))
鞆城から見た大可島城跡

感想:円福寺の歴史が詳しく分かりませんでした。

(縄張図)
縄張図



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA