安芸 頭崎城(平賀氏の居城)

●安芸 頭崎城
住所:広島県東広島市高屋町貞重
駐車場:なし
遺構:曲輪、掘切、畦状竪堀群、土塁、石垣
標高:502メートル/比高:249メートル

 広島県指定史跡。出羽国平鹿郡(現在の秋田県横手市など)から鎌倉時代に安芸に本拠を移した平賀氏が、出雲の尼子経久の安芸侵攻など戦乱の激化のため大永3(1523)年頃に築いたと伝わる。大永5(1525)年、安芸から尼子勢力を駆逐した大内氏は尼子に味方した平賀氏を攻めるが撃退した。
 天文5(1536)年から平賀氏の御家騒動が表面化すると父・平賀弘保と対立した平賀興貞は頭崎城に籠もって尼子氏を味方につけた。そのため平賀弘保に味方した大内義隆に攻撃されるが撃退している。しかし次第に大内義隆の軍勢に押されたため、尼子晴久が安芸での勢力を挽回を目的に出陣し吉田郡山城を攻めたが、天文10(1541)年に敗北し出雲に撤退した。これにより尼子氏に味方した勢力は劣勢となり頭崎城も落ちている。
 天文18(1549)年、平賀興貞の息子で家督を継いでいた隆宗が病死したため、大内義隆は自分の養子の隆保を強引に平賀氏の後継者とする。天文20(1551)年、陶晴賢が義隆を倒し毛利元就に隆保の攻撃を命じたため、頭崎城が元就によって攻撃され落ちた。その後、隆宗の弟・広相が跡を継ぎ平賀氏は頭崎城を居城として続いたが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで毛利氏が防長に押し込められると、それに従い廃城になる。

(全景。これを見た時、「ここを登るのか。たいぎぃ」と思った)
全景

(入口。害獣が出て来ないように2016年には無かった柵がある)
入口

(下にスクロールするとある縄張図の標高359.0と書いてある辺り。削平地に見えたが遺構ではないようだ)
削平地

削平地

削平地

(鳥居の段)
鳥居の段

鳥居の段

鳥居の段

(鳥居の段を過ぎると城内に頭崎神社の標柱がある)
標柱

(三の丸。曲輪の一角には大永5(1525)年に大内軍を撃退したことを記念して建てられたと伝わる頭崎神社がある(大永3(1523)年の築城時とも)。神社の本殿は東広島市の重要文化財に指定されている)
鳥居の段

鳥居の段

鳥居の段

鳥居の段

(太鼓の段)
太鼓の段

太鼓の段

太鼓の段

(太鼓の段から南東を望む)
太鼓の段から南東を望む

(曲輪A。上り下りに難儀した)
曲輪A

曲輪A

曲輪A

(二の丸)
二の丸

二の丸

二の丸

(甲の丸)
甲の丸

甲の丸

甲の丸

(二の丸の南に見晴らし石のようなものが突き出していた)
見晴らし石

(通称・硝煙の段。現在は明治神宮が建っている)
硝煙の段

硝煙の段

硝煙の段

(平成12(2000)年の鳥取県西部地震により下段に移動したらしい。日本一の雑魚・鳥取県ごときが中四国の頭である広島県様に迷惑をかけて心苦しく思っています)
鳥取県西部地震

(甲の丸の北に位置する西の丸)
西の丸

西の丸

西の丸

(西の丸の西にある畦状竪堀群)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(北西の県道348号から車で登ると出られる駐車場。しかしGoogleストリートビューで見る限り348号自体が狭い上に城への道が荒れているので南西から登山した。この駐車場も曲輪らしい)
駐車場

駐車場

駐車場

(曲輪群Bの周辺。正直、どの辺りを歩いているのか分からなかった)
曲輪群B

曲輪群B

曲輪群B

参考文献:安芸の山城、広島県の地名、県史跡 平賀氏の遺跡、現地の案内板

感想:広すぎて一部しか廻れませんでした。
 駐車場が無くて困っていたら近くの農事組合法人の方に「ここなら誰も駐めんからええで」と言われて駐車スペースを教えてもらいました。ありがとうございました!
 ちなみに駐めたのは農事組合法人の駐車場ではありません。駐めると作業の邪魔になるので絶対に駐めないように。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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