常住山本行寺(江藤新平、成富兵庫茂安、龍造寺胤家の墓)

●常住山本行寺
住所:佐賀県佐賀市西田代1-4-6
駐車場:あり

 日蓮宗。肥前の国人・龍造寺胤家が筑前に滞在中、諸国を廻っていた下総の僧・日政と交流があり、永正15(1518)年に佐賀城の北に本行寺を創建する際、日政を開山とした。以来、胤家の系統の与賀龍造寺の菩提寺となる。慶長15(1610)年、佐賀藩主・鍋島勝茂が現在地に移転する。現在の本堂と毘沙門堂は文化3(1806)年に再建された。
 明治7(1874)年に佐賀の乱を起こした江藤新平の軍が本行寺に駐屯した際、当時の住職が物資を提供したと伝わる。
 胤家が祖父から譲り受けた本尊の毘沙門天立像は佐賀市の重要文化財に指定されている。鬼子母神も祀っていることから小児の守護を願って参拝する者も多い。

(入口)
入口

(参道。確認していないが有名な方が寄進した燈籠もあったのだろう)
参道

(境内。中央には日蓮さんの像が立つ)
境内

(本堂の再建と一緒に建てられた狛犬)
狛犬

(明治維新で活躍したが佐賀の乱で政府に敗れ処刑された江藤新平の墓。墓碑は副島種臣の筆である。最初は佐賀市鍋島の蓮成寺に葬られていたが、病気平癒や兵役を免れられるなどの御利益があるということで参拝者が多く、大寺院の本行寺に改葬された)
江藤新平の墓

江藤新平の墓

(成富兵庫茂安の墓。竜造寺家、鍋島家に仕え数々の戦功があった。治水事業に尽力したことから地元の方に慕われている。ここには遺髪が納められている)
成富兵庫茂安の墓

(鍋島直弘の墓(正面)。佐賀藩主・鍋島勝茂の四男で成富兵庫茂安の養子となり、白石鍋島家の初代となっている)
鍋島直弘の墓

(龍造寺胤家の墓(中央))
龍造寺胤家の墓

参考文献:佐賀県の地名、佐賀県の歴史散歩、佐賀市公式サイト、与賀竜造寺記録 附本行寺由緒 清心院由緒

感想:寺の前を通る国道207号の交通量が多いため出入りに難儀しました。



黒土原の千人塚(今山の戦いの両軍戦死者の供養塚)

●黒土原(くろつちばる)の千人塚
住所:佐賀県佐賀市大和町大字池上(字 於保)
駐車場:平成子ども記念の森学習館の駐車場を利用?

 元亀元(1570)年の今山の戦いで納富但島守の手の者が大友軍の戦死者千人余りと龍造寺軍の戦死者百人余りの遺体を集め葬ったという。当地には於保氏という領主がいたが大友軍についたため没落している。

千人塚

千人塚

参考文献:黒土原遺跡 (佐賀市文化財調査報告書 第19集) 、佐賀県の地名、現地の案内板、佐賀市公式ホームページ

感想:佐賀県林業試験場内にあるため車を駐めさせてもらって参拝しました。無許可で駐車、参拝できるかは分かりません。平成子ども記念の森学習館が併設されているため問題ないとは思いますが。
 九州なので、やはり原は「ばる」と読みます。



肥前 前田利家陣跡(肥前名護屋の陣跡)

●肥前 前田利家陣跡
住所:佐賀県唐津市鎮西町名護屋(字 平野町)
駐車場:道の駅 桃山天下市の駐車場を利用
遺構:曲輪、石垣、虎口
標高:72メートル/比高:34メートル

 加賀金沢80万石の大名・前田利家の肥前名護屋での陣跡である。8,000の軍を引き連れてきた利家は当初東岸に陣を設けたが、徳川家康と水利権で争ったため両者とも名護屋城に近い場所に陣替えされたという。陣跡のある山は前田利家の官位・筑前守から取って筑前山と呼ばれている。

(「はじまりの名護屋城」と「信長の野望」がコラボした看板が立っている)
看板

(駐車場に石垣と濠のような箇所があった)
石垣と濠

(全景。麓に3つの曲輪があり、その奥の山林にも削平地がある)
全景

(虎口にある修復された石垣)
虎口

虎口

(麓の中心になる曲輪)
中心になる曲輪

中心になる曲輪

(旗を掲げるために円形の穴を開けた旗竿石)
旗竿石

(麓の最上段の曲輪)
最上段

(この後は山林に入って曲輪らしき場所を撮影した)
山林

山林

山林

山林

山林

(山頂辺りには石垣の名残らしい石が落ちていた)
山林

参考文献:九州の名城を歩く 佐賀・長崎編、現地の案内板

感想:麓までは「道の駅 桃山天下市」のお客さんの数名が好奇心で来ていましたが、山林には流石に誰も来ていませんでした。
 交通整理の方が車のナンバープレートを見る度に「○○から来てくださり、ありがとうございます!」と言われていたが、私の鳥取ナンバーを見てどこにあるのか分からず無言になっておられました。その方が城への行き方を教えてくれました。ありがとうございます!