鵜戸神宮(日向国の鎮守)

●鵜戸神宮
住所:宮崎県日南市宮浦3232
駐車場:あり

 主祭神は日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。本殿のある岩屋は、日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊の生誕地との伝承があり、本殿西方の鵜戸山にある吾平山上陵は同尊の陵墓と伝えられている。崇神天皇の時代に社殿が創建され、延暦元(782)年に勅命により再興して、別当寺の仁王護国寺を創建した。
 天文2(1533)年、小笠原光清が鵜戸神宮を参拝すると聞いた新納忠勝は、自身の領地である志布志(鹿児島県志布志市)に招待し、小笠原流の弓馬の道について教えを請うとともに、犬追物を開催するようになったという。天正6(1578)年、島津義久は高城・耳川の戦いの前に戦勝祈願をして鵜戸神宮などに仁王経三部を読経させた。
 天正14(1586)年、島津家の家臣である前田兼政は鵜戸神宮に参詣して筑前岩屋城(福岡県太宰府市)攻めでの高名と武運長久を願っている。同年、島津家久は入田氏に対して加勢が遅延していることを疎かにしていないことを「当国之鎮守鵜戸」も照覧あれ、と誓っている。他にも伊東祐尭、島津忠朝、島津武久が起請文で誓う寺社に鵜戸神宮を挙げるなど、日向国の鎮守として崇敬されていた。
 近世には仁王護国寺と共に飫肥藩主・伊東氏の庇護を受け、社殿の造営や社領の加増などが行われている。明治元(1868)年、仁王護国寺は廃寺となり神官の住まいとなった。鵜戸大権現、鵜戸六社大権現、鵜戸六所大権などと呼ばれていたが明治7(1874)年に鵜戸神宮に改称している。
 現在でも安産、産育、漁業、航海安全、縁結びなどの御利益があるとして全国から参拝客が訪れている。

(神門)
神門

神門

(楼門)
楼門

楼門

(日向灘。晴れていたら綺麗だっただろうに)
日向灘

日向灘

(本殿のある岩屋。願い事が叶う御霊石や撫でウサギなどがあった)
鳥居

撫でウサギ

御霊石

岩屋

本殿

(この時の目的だった剣法発祥之聖地の碑。相馬四郎義元が参詣して念流を開き、愛洲移香も参詣して陰流を始めたことに由来する)
剣法発祥之聖地の碑

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県の歴史散歩、鹿児島県史料 旧記雑録後編 2、宮崎県神社誌、鵜戸神宮公式サイト

感想:鹿児島県を旅行している時、予備知識なしでふらっと参拝しました。そのため見逃している箇所が多数あります。



鶴寿丸(つるひさまる)の墓(島津義弘の長男の墓)

●鶴寿丸(つるひさまる)の墓(島津義弘の長男の墓)
住所:宮崎県えびの市小田(字 麓)
駐車場:なし

 市指定史跡。鶴寿丸は、島津義弘の長男として生まれたが、天正4(1576)年に8歳で赤痢のため夭折した。加久藤城内に葬られたが、10年後に現在の地にあった光林山不動寺に改葬される。
 赤痢に効果がある神様として、大正時代まで参拝客が訪れていたという。

(道沿いにある案内の看板)
案内の看板

(光林山不動寺の跡。顔を削られた石仏が痛々しい)
光林山不動寺の跡

光林山不動寺の跡

(鶴寿丸の墓。墓石は明治維新後の廃仏毀釈の際に神道型に作り直された。正面には戒名ではなく「蘆鶴雲翔男命」と神号で刻んである)
鶴寿丸の墓

参考文献:現地の案内板、えびの市公式サイト、加久藤町郷土誌、調和 基地と住民 通巻59号、

感想:加久藤城に向かう途中、案内の看板があったので参拝しました。
 木崎原の戦いの前哨戦、加久藤城の攻防戦では不動寺の僧・久道が火縄銃で伊東軍の米良筑後守を射殺したそうです。廃仏毀釈では加久藤村の仏像が不動寺に集められ焼却されています。



東霧島神社(島津家に崇敬された神社)

●東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)
住所:宮崎県都城市高崎町東霧島1560
駐車場:あり

 主祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。東を「つま」と読むのは、「あづま」を略して「つま」と読むようになったとする説がある。
 第五代孝昭天皇の頃(紀元前400年頃)に霧島山に創建されたが、噴火などの災害により被災し、応仁3年(963年)に僧・性空が現在地に再建するとともに別当寺を創建したとされる。『三代実録』に記載される「霧島神」や『延喜式』神名帳に見える「霧島神社」が、この東霧島神社に該当するという。
 応永16(1409)年、島津久豊が先勝祈願を行った。天文21(1552)年、本郷忠相が土地を寄進している。天正6(1578)年、高城・耳川の戦いに出陣する際には際には、島津義久が東霧島神社や鵜戸神宮に祈祷を依頼した。慶長4(1599)年6月の庄内の乱では島津忠恒、島津忠豊、新納忠元らの軍勢が集結し、東霧島の住僧であった豪澄も志和池城攻めに参戦した。同年10月には、島津義久が本陣を置いている。
 近世までは「東霧島大権現」や「妻霧島」などと呼ばれていたが、明治元(1868)年に長尾神社と改称し、明治30(1897)年に現在の社名である東霧島神社と改称した。
 社宝として、応永16(1409)年~文禄3年(万暦22,1594)年までの島津家や琉球王国の中山王に関する文書が「東霧島神社文書」として市の有形文化財に指定されている。

(鳥居)
鳥居

(参道。三が日の7時半頃に行ったので屋台はあったが開店していない)
参道

参道

(厄割石。購入した厄割玉をぶつけて災いや不満を払うらしい)
厄割石

(神石裂磐。この石が悪魔となって障りがあったため伊弉諾尊が十握剣で切り裂いたという伝承がある)
神石裂磐

神石裂磐

(伊弉冉神社。身重で本殿に参拝できない女性のための末社で、安産などの御利益があるという)
伊弉冉神社

(龍王神水。人々を守護する力があるらしい)
龍王神水

龍王神水

(社殿への石段の入口。賽銭箱があるため登ってよいのか困惑している参拝者がいた。おそらく賽銭箱は登れない方のためだろう。石段は鬼が築いたという鬼磐階段の伝説があるため鳥居の横に鬼の像がある。伝説に興味がある方は宮崎県都城市ホームページを見てください)
石段の入口

(石段。急なので皆が難儀していた)
石段

石段

石段

石段

(山門)
山門

(平成30(2018)年に倒れた竜神大杉の枝)
竜神大杉の枝

(社殿)
社殿

社殿

社殿

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県の歴史散歩、東霧島神社公式サイト宮崎県都城市ホームページ

感想:都城市から小林市に向かって国道221号を走っていたら看板が出ていたので参拝しました。最初「ひがしきりしまじんじゃ」と読んでいました。
 県指定有形文化財の梵鐘があり島津義広が大坂夏の陣の戦勝祈願のため寄進したものがあったらしいのですが見逃しました。