長興寺(戸田氏・一色七郎・九鬼守隆の墓)

住所:愛知県田原市大久保町岩下8

 曹洞宗。1275年に天台宗『大覚寺』として創建された。のちに臨済宗となる。元寇では祈願所となるが室町中期に衰退した。
 1481年、田原城主・戸田宗光が恩顧のある一色七郎の菩提を弔うため、寺号を長興寺に、宗派を曹洞宗に改め再興している。

(1694年に再建された山門)

(参道)

(本堂)

(戸田康光と戸田外記の墓。康光は岡崎から駿府の今川家に人質に出される徳川家康を織田家に売り渡したという話が良く知られている)

(九鬼守隆夫妻の墓(中央の二基)。守隆の娘が戸田氏に嫁いでいた関係だろう)

(左から戸田忠政・忠次・忠次室の墓。忠次は今川氏に一度は滅ぼされた戸田氏を徳川家康の力を借りて再興している)

(戸田憲光(中央)・政光(右)の墓)

(戸田宗光夫妻の墓)

(一色七郎の墓。七郎は足利将軍家と姻戚関係で渥美半島を治めていたが、応仁の乱後に勢力を伸ばした戸田氏と和解して隠居している)

(戸田氏累代の墓)

感想:参拝した当日は何かの行事の日でとても賑やかでした。


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城宝寺(渡辺崋山の墓)

住所:愛知県田原市田原町稗田50

 浄土宗。田原の城下町が作られた際、南東の守りを固めるために創建された。渡辺崋山霊牌堂の天井画が良く知られている。

(山門)

(境内にある城宝寺古墳。市内最大の独立墳である)

(本堂)

(弘法大師作の弁財天を祀る弁財堂。徳川家康が1564年にここの洞中に身を隠したらしいが、何で…? 三河一向一揆は関係なさそうだし)

(渡辺崋山と家族の墓)

感想:渡辺崋山霊牌堂の天井画はお寺の方に頼めば見られたらしい。惜しいことをした…(T_T)


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霊巖寺(三宅家墓所・首無し地蔵)

住所:愛知県田原市田原町北番場

 三宅氏が1664年に田原藩主となった際、旧領の西加茂郡にあった菩提寺を移転したのが始まりである。

(入り口。山号の梅坪山は現在の豊田市梅坪町(旧・西加茂郡梅ヶ坪村)にあったため、つけられた名前である)

(山門)

(地蔵堂)

(本堂)

(田原藩の重臣・真木定前の墓。酒井家から養子に入り三宅家の家督を継いだ康直は、渡辺崋山に次の家督を三宅氏の血を引く康保に譲る約束をする。しかし崋山が亡くなると康直が実子に継がせようとしたため、定前に諫言されたが聞き入れなかった。そこで定前が自害して抗議すると、康直は考えを改め康保に家督を譲ることとし、定前の忠心に報いるため当寺に葬っている)

(三宅家墓所入り口)

(三宅家累代の墓。歴代藩主や正室などの墓が並んでいる)

(徳川家康に仕え活躍した三宅康貞の墓。(大名としての)三宅家初代当主なだけあって扱いが違う)

(首無し地蔵。三宅貞三郎は侍女・於阿佐と恋に落ちるが身分が違うということで離れ離れにされ、会うことを禁じられる。それでも二人は密かに会い続けたため、藩の命令で貞三郎は自害させられ、於阿佐は斬首されてしまった。二人は当寺に葬られ地蔵が建てられたが、いつの頃からか地蔵の首が落ちるようになり「首無し地蔵」と呼ばれるようになった。)

感想:豊田市にあった霊巖寺は今でも豊田市平芝町に残っています。地図で見ると平芝町は梅坪町の隣なので、昔はこの辺り一帯が梅ヶ坪村と呼ばれていたのでしょう。
 ネットで検索した限り、首無し地蔵は2007年の時点では首がついていたようですが、訪れた2013年にはまた落ちてしまったようです。その首無し地蔵は「純愛地蔵様」と呼ばれ、恋の悩みがある時に願いをかけると良いことがあるらしいです。


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