最終章:三日月の落ちる日

【信長に謁見する】京都についた鹿之助は中央で勢力拡大の著しい織田信長に頼る事を考える。そこで隠岐から勝久を招いた鹿之助は織田軍の山陰方面の司令官・明智光秀の仲介で謁見をすることになった。天正元年(1573年)4月頃のことである。鹿之助と会った信長は援助を許可し光秀の支配下に入れる事にした。

【再び因幡へ】1573年12月、鹿之助らは再び因幡に進入し三千の兵で次々を城を攻略。鹿之助が去った後に侵入してきた毛利軍の威風を恐れてそちらになびいていた山名氏も再び来た尼子軍の勢いが盛んだと見るとまたも尼子に協力するようになる。これにより因幡の大半が尼子氏の傘下に入った。
 しかし1575年2月に尼子軍が鳥取を離れ若桜鬼ヶ城(鳥取県若桜町)の攻略に向かい留守にしていた時に、毛利軍が再び侵攻してくると山名氏がまたも毛利に寝返ってしまう。これにより尼子軍は苦境に立たされる。しかも8月には吉川・小早川の両将が因幡に入り状況はますます悪くなった。
 尼子軍は私都城(鳥取県八頭町)を拠点としていたがここにも毛利軍が来襲。1576年5月、ついに支えきれなくなった鹿之助らは但馬方面に逃走し、3年に渡る因幡での戦いは幕を閉じる。

鳥取県の若桜町にある若桜鬼ヶ城跡
鳥取県の若桜町にある若桜鬼ヶ城跡

【羽柴軍の配下に】一旦、京へ戻った鹿之助は、明智光秀に従い織田信長に対して謀反をおこした松永久秀を討つ為、大和(奈良県)に向かい活躍している。1577年9月、織田信長は羽柴秀吉に毛利征伐を命じ彼を姫路に派遣した。姫路に入った秀吉は毛利攻略の足がかりとして因幡・美作・備中への要所・上月城(兵庫県佐用町)を抑えなければならないと考えた。そこで秀吉は上月城主の赤松氏に織田方になるように言うが赤松氏はそれを拒否したため攻め滅ぼした。
 そこに尼子軍800を入れ守備させる事にした。しかしすぐに毛利と同盟を結んでいる宇喜多直家が奪い返しに五千の兵で攻めてきたため守るのは難しいと判断すると退却し、姫路に撤退した。

兵庫県佐用町の上月城跡に建つ上月城戦没者合同慰霊碑
兵庫県佐用町の上月城跡に建つ上月城戦没者合同慰霊碑

【上月城へ】明けて1578年3月、再び羽柴軍は二万一千の大軍で播磨攻略に向かい、再び上月城を攻め落とした。そこでまたも尼子軍を配備することにしたのだが、立原久綱は「上月城は守りにくい城である。ここで小数で守るのは難しいのではないか」と鹿之助に進言する。しかし鹿之助は「何かあったら羽柴軍が援護に駆けつけてくれるはず」耳をかさず、結局尼子軍は城に入ることになった。
 4月になると毛利軍は再び上月城を奪取しようと動き出し総勢6万もの大軍で羽柴軍掃討に向かってきた。その大軍に何重にも包囲された上月城は風前の灯火となった。そのため秀吉は救援に向かおうと思ったが、三木城(兵庫県三木市)の別所氏が織田に背いたためそちらに集中しなくてはならなくなり動きが取れなくなっていた。
 困った秀吉は信長に助けを求めたが「三木城に専念すべし」との命で見捨てなければならなくなってしまった。そこで秀吉は尼子軍を何とか救出しようと「こちらが毛利軍に撃ちかかるのでそれと同時に上月城からも打って出て、合流し城に篭っている者を助ける」と使者を送り提案するが「城兵の犠牲者を出すわけにはいかない」と鹿之助はこれを拒否し、毛利軍への降伏を決意した。

岡山県高梁市の阿井の渡場近くに建つ鹿之助の墓
岡山県高梁市の阿井の渡場近くに建つ鹿之助の墓

【甲部川】 毛利軍は尼子軍の降伏を認め尼子勝久以下、幹部の切腹と城兵の助命を約束した。ここで切腹しなければならないはずの鹿之助であったが、なぜか毛利軍は命を助け降伏を認めている。その理由は諸説ありはっきりとは分からない。またここで主君を殺してでも生き残る事を選んだ鹿之助の心情も分かっていない。一説には吉川元春と刺し違えるためだったと言われているが定かではない。ともかく勝久らは切腹し鹿之助は命を助けられた。
 しかし毛利家は邪魔な存在なだけの、しかも一度騙された鹿之助を生かしておくはずが無かった。彼を護送し備中の甲部川(高梁川)にさしかかった時、突然、毛利家の河村新左衛門が斬りかかってきた。重症を追いながらも何とか相手を押さえつけた鹿之助であったが、後ろから福間彦右衛門らに押さえつけられ遂に首を獲られてしまった。毛利輝元の命令だったと言われている。享年三十四歳。ここに尼子再興にすべてをかけた山中鹿之助の生涯は幕を閉じた。

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