第三章:山陰の麒麟児

【尼子家再興を企てる】永禄12年(1569年)、毛利家は前年より続いていた豊後の大友氏との戦いに決着が着かず北九州で膠着状態に陥っていた。これにより山陰に軍事的空白ができてしまう。好機到来と見た鹿之助は行動をともにしていた立原久綱(鹿之助の叔父で尼子氏の重臣の家系)らとともに出雲入国を企てる。
 そのために新宮党の遺児で東福寺で僧をしていた16歳の青年を還俗させ尼子勝久と名乗らせ尼子氏再興の旗頭になってもらうことにした。勝久は文武両道に優れ仁愛の心をもった名将だったと伝えられているので当主と仰ぐにはまさにぴったりの武将であったようだ。

尼子経久の墓から見た月山富田城
尼子経久の墓から見た月山富田城

【出雲入国】鹿之助ら350人あまりの遺臣達は但馬(兵庫県北部)に移動し海賊・奈佐日本之助の力を借りて隠岐の島(島根県隠岐郡)に行きその後美保関(島根県松江市)に上陸し尼子再興を訴えた。するとたちまち旧臣達が集まり三千人もの大軍に膨れ上がった。
 鹿之助らは真山城(松江市)を落とし拠点を作ると、尼子氏の本城だった月山富田城に向かう。富田城を守るのは天野隆重以下僅か300人であったが、彼の巧みな采配と堅城のために城を落とせない。攻めあぐねた鹿之助は矛先を変え、石見(島根県西部)や伯耆に向かおうとした。
 しかし協力者であった隠岐の豪族・隠岐為清が毛利軍に寝返えり美保関で反乱を起こしたためそちらの討伐を決意。弓ヶ浜から船で美保関に渡り300余りの兵で隠岐軍に攻撃を加える。だが必死の隠岐軍に押され尼子軍は散り散りになってしまう。鹿之助も隠岐軍に追いかけ回されたが体勢を立て直した尼子軍の兵に救われている。その時、尼子軍に援軍が現れたため隠岐軍は総崩れとなり為清も命からがら隠岐へ逃げ込んだ。
 この美保関での戦いの功労者は援軍で駆けつけた横道兄弟らであったが、勝久は鹿之助・立原久綱に遠慮して感状を出さなかった。それを聞いた鹿之助・久綱は「賞罰を明らかにしないと忠臣は出ないといいます。どうか彼らに感状をお出しください」と進めた。こう進言された勝久は鹿之助の言葉に従って横道兄弟らに感状を与えたという。

美保関港
美保関港

【布部山の戦い】この頃、毛利元就は大内輝弘(大内氏最後の当主の遺児)の防長(山口県全域)進入などに苦しんでいたがなんとかこれを蹴散らし、大友には備えを置き本隊を出雲に向かわせた。永禄13年(1570年)正月、毛利輝元(元就の孫で現当主)と吉川元春・小早川隆景以下、13000人の大軍は石見から出雲を目指した。
 これを知った尼子軍は会議を開き、毛利軍が富田城に入ると出雲奪還の機会が失われるので何としてもその前にそれを阻止しようという結論に至った。鹿之助は末次城(松江市)に勝久を残して(敵に余裕があるように見せかける作戦だったためと言われている)6800の兵を率いて布部山(島根県安来市)に向かった。ここは石見路から富田城に行く際必ず通らなければならない要所であったため陣を構えたのだ。尼子軍は布部山の二つしかない登り口に多数の兵を配備し万全の体制で毛利軍を待ち構えた。
 これは攻め落とすのは難しいと感じた毛利軍の吉川元春は住民に間道を教えてもらい、別働隊を率いて裏から布部山の頂上に登りそこから尼子軍の本陣を強襲した。二つの登り口に兵を集中していたため本陣は大混乱。それに乗じて毛利軍本隊も攻撃を開始。上下から攻められた尼子軍は大敗北を喫してしまう。

布部山
布部山

【末吉城の攻防】なんとか逃げのびた尼子軍の残兵達は主君・勝久の待つ末次城に逃げ込むが勢いに乗る毛利軍に追い立てられそこからも撤退。尼子軍が取り返していた出雲の城も次々と毛利軍に奪われ鹿之助らは伯耆の末吉城(鳥取県大山町)に落ちのびそこに立て篭もる。
 この時すでに勝久は真山城の方に逃れ離れ離れになってしまっていた。伯耆に乱入した毛利軍は尼子軍と気脈を通じる大山寺を攻撃すると宣言した。これを聞いた鹿之助は毛利軍を挟み撃ちにしようと考えた。だがこれは吉川元春の策略だった。元春は大山に向かうふりをして途中で方向を変え末吉城を夜中に包囲したのだ。
 これに引っかかった鹿之助は油断してしまっていたため大した防戦も出来ずに追い詰められてしまう。これはどうしようもないと悟った鹿之助は降伏を決意。その鹿之助を元春は殺そうとするが宍戸隆家らが「鹿之助のような名将を家臣にすればきっと役に立つでしょう」といい助命を嘆願した。この願いを聞いた元春は渋々これを承諾した。

末吉城址に建つ鹿之助の供養碑
末吉城址に建つ鹿之助の供養碑

【鹿之助捕まる】 鹿之助は尾高城(鳥取県米子市)に送られ幽閉された。おとなしく従うようなふりをしていた鹿之助であったがもちろん尼子氏を捨てるような彼ではない。なんとか抜け出さないとと思案した鹿之助は一つの案を思いつく。ある日、鹿之助は股を刺して赤痢にかかった振りをして一晩中便所に通った。
 最初は警戒していた番兵だったが段々油断が生じてきて最後にはついてこなくなった。好機到来と鹿之助は便所の穴から脱走し因幡へ逃走。それを知った元春は尼子軍と再び合流されては面倒と真山城に篭る勝久を攻撃し彼を隠岐に追いやっている。

【海賊・鹿之助】因幡に逃亡した鹿之助は資金を得るため400人ほどの海賊を率いて略奪行為を繰り返した。住民達は鹿之助を悪鬼羅刹のごとき者と恐れ憎んだと言われている。その海賊行為が実を結び(?)遂に桐山城(鳥取県岩美町)を奪取し再び山陰での活動拠点を確保した。
 これに目をつけた因幡の守護・山名豊国は家臣・武田高信に奪われた鳥取城を取り返すため鹿之助に協力を依頼する。更なる勢力拡大を目指す鹿之助はこれを承諾し武田方の甑山城(鳥取県国府町)を奪い取った。これを知った武田高信は鹿之助を討とうと甑山城を包囲するが散々に打ち負かされ鳥取城に追い返した。これに乗じ山名豊国は鳥取城を攻撃し武田高信を降伏させている。
 この功績で鹿之助は山名氏の重臣となったが「このまま山名にいても尼子再興は無理だ」と思っていたところ京都にいた立原久綱から上洛を促す知らせが来たので、元亀3年(1572年)の冬、山名家を辞し京都に上洛した。

鳥取市の大義寺にある武田高信と家来の墓
鳥取市の大義寺にある武田高信と家来の墓

ここに掲載されている内容・画像は転載禁止です。
Copyright (C) 2001 Tikugonokami. All rights reserved.