第一章:願わくば我に七難八苦を与え給え

【衰退する尼子氏】山中鹿之助幸盛は天文14年(西暦1545年)8月15日、月山(島根県安来市)の麓・新宮谷で尼子氏の重臣・山中三河守満幸の子として生まれた。
 尼子氏は中国地方に一大勢力を築いた戦国大名であったが毛利元就の居城・吉田郡山城(広島県安芸高田市)攻撃の失敗、当主・経久の死亡などで衰退の一途をたどっていた。ただ鹿之助が生まれた頃には、周防山口(山口県山口市)の大名・大内義隆の出雲遠征軍を撃退したり、因幡・伯耆(鳥取県全域)を攻略するなど勢力回復の兆しも見え始めていた。
 しかし天文23年(西暦1554年)、一つの事件が起こる。軍事集団であった新宮党が謀反の企てありと当主・尼子晴久の手によって討伐されてしまうのだ。毛利元就の謀略のためだと言われている。これにより尼子氏の軍事力が低下、それからそのダメージを回復できぬまま滅亡してしまうのである。

月山富田城の麓にある新宮党の墓
月山富田城の麓にある新宮党の墓

【幼少の鹿之助】そんな状況で鹿之助は生まれ成長したのだ。父を早くに亡くし彼は母の手一つで育てられたため貧乏で苦労したと伝えられている。8歳の時に病弱な兄をいじめる鎌次郎という乱暴者をねじ伏せるなど正義感があり武勇に優れた子供だったようだ。
 そして病弱な兄に代わって家督を継ぎ、次期当主の尼子義久の近侍となる。初陣は16歳の時である。尼子義久に従って山名氏(鳥取県東部を中心にしていた戦国大名)の支城・伯耆尾高城(鳥取県米子市)の攻略に向かっている。

米子市尾高にある尾高城跡
米子市尾高にある尾高城跡

【毛利軍来襲】永禄6年(1563年)、毛利元就はいよいよ宿敵・尼子氏の討伐に乗り出した。天文24年(1555年)厳島(広島県廿日市市)で大内義隆を討った陶晴賢を倒し山陽を手中に収め、九州豊後(大分県)の大友氏と和解した彼は全力で尼子氏を攻撃したきたのだ。
 これに対し尼子氏は支城と本城・月山富田城に篭城を決める。しかし飛ぶ鳥を落とす勢いの毛利軍は次々に支城を攻略。富田城の近く白鹿城(島根県松江市)にまで迫ってきた。白鹿城には二千の兵がいたが毛利軍一万の攻撃にさらされ兵糧も乏しくなり落城寸前にまで追い詰められていた。これを聞いた尼子軍は救援をすることを決め、弟の倫久を総大将に一万の軍勢を向かわせた。

現在の弓ヶ浜半島
現在の弓ヶ浜半島

【助言を退けられる】この時、鹿之助は『我ら近習が先陣を進んで敵を攪乱し、その後に大身衆(家老達のこと)が攻めたてれば必ず勝利を得られましょう』と進言するが、家老達からは『若造が何を』という目で見られ採用されなかった。
 9月23日に白鹿城近くに着陣し攻撃を仕掛けるが、毛利元就の息子・小早川隆景と吉川元春の巧みな采配に翻弄され総崩れになってしまう。鹿之助ら若者が踏みとどまりなんとか体勢を立て直そうと努力したが一度崩れた軍勢を元に戻すのは難しく結局は撤退せざるをえなかった。その後まもなく白鹿城は落城してしまっている。
 この戦いで鹿之助は『年寄り達は話にならん。尼子を支えるのは俺達だ』と感じたことであろう。続いて鹿之助は富田城の兵糧の運搬筋である伯耆弓ヶ浜(鳥取県米子市・境港市)を防衛するため出撃している。ここで毛利軍の杉原盛重と一進一退を繰り返していた。この頃、富田城は毛利軍の激しい攻撃にあっていたが堅固な富田城はまったく落ちる気配はなく毛利元就は益田藤包を備えに置いて一旦、洗合(島根県松江市)まで撤退する。

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