豊臣軍壊滅作戦

「豊臣軍との和睦は最後には必ず破られて、合戦になるのは間違いない。それなら今、大坂城の石垣が破壊され平城になっているうちに攻めた方がよい。これは天が与えた好機だ」
 1614年12月25日、伊達政宗藤堂高虎らは密かに本多正純に会って上申した。

 しかし徳川家康は反対。
「皆の申すことは利があるが、それはできないだろう。そのような不義を行うものは、古今から必ず天の罰を受ける例が多い。近くは関ヶ原の戦いで石田三成が中四国や九州及び畿内の諸大名と語らって謀反を企てた際、豊臣秀頼も三成の悪事に組し、忠義の家臣であるこの家康を滅ぼそうとした。しかし正しいことをしていたので、石田三成ら逆徒をことごとく一戦で滅ぼした。この時、秀頼公をも殺害しようと諸将は言ったが、私は亡き豊臣秀吉公との付き合いを思って皆をなだめて死を許した。しかしその慈悲が仇となって、秀頼は再び謀反を企てて様々な人を苦しめている。今これを討つのは簡単だが、相手に不義があるなら私は善を持って応じようと思っているから和睦をしたのだ。もしまた秀頼に不義があれば天罰があるだろう。それは自業自得だ」

徳川家康像
岡崎城にある徳川家康像

 家康はなおも過去の例を出して話を続けた。
「織田信長公は足利義昭を追放したため、信長親子は明智光秀に殺されて子孫は衰退している。豊臣秀吉公は信長公の恩を受けたのに子孫を殺した。それゆえに秀頼は皆の気持ちに背いて、このような行動に出たのだ。武田信玄も名将だったが、父を追放した罪で悪名を背負った。そのため、1573年の三河野田の合戦で流れ矢に当たって負傷し、傷が癒えずに死亡した。そしてその後、勝頼も滅亡している。このような例は古今東西問わず多い」

「私は信長公に援助して戦い、秀吉公とも信長公との付き合いを思い織田信雄殿を助けて、日本国中の大名を敵に廻して戦い勝利した。そして和睦し豊臣軍の一員として従軍し国内の強敵を滅ぼした。所詮、家康は秀吉公の家臣とは違う。しかし従っていたことを思って、秀頼の毎度の不義を許して死罪を許している。次に謀反を起こせば秀頼は自滅するだろう。家康は道を間違えず天理(人為でない天の正しい道理)に背かないので、子孫は天下を保って百代でも家が存続するだろう」
 最後に家康は自分の行動が道理にかなっていることを説明。これを聞いた者は家康の誠意に感じ入った。(『難波戦記』)

三河野田城
愛知県新城市豊島本城にある三河野田城

管理人・・・なんというか、、、家康の言葉は矛盾だらけのような気が、、、。

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