諸大名、家康に再撃を勧める

 1614年12月21日に和議が成立したため、23日から徳川軍は石壁を崩して堀を埋め立てた。その状況を三奉行が報告すると徳川家康は満足の様子で
「明日から私は上洛するが、将軍家(徳川秀忠)と諸軍勢は全員大坂で年越しし総構・堀・櫓まで破壊するように」
 と命令した。その命令を聞いた大名達は我も我もと家康のところに別れの挨拶に向かった。その途中、伊達政宗藤堂高虎と出会った。そこで政宗は高虎に
「さてさて急なご上洛によって見事に堀が平定された。この機に本丸までを葬ろうと考えている。あなたはどう思われますか」
 と耳打ちした。すると高虎は笑みを浮かべ
「私もそれを考えていた。ただし2人で言上するには恐れ多いので本陣に行き他の者と申し合わせてからにしよう」
 と提案した。2人は茶臼山の広間で井伊直孝など9人の大名と示し合わせて、政宗の口から家康に
「思いのほか早く総堀が平定されましたので、二の丸を破却し、本丸をも葬り去ろうという結論が、皆で話し合いの結果出ました」
 と言上した。家康は機嫌よく話を聞いた後
「この度の総堀の件は皆に感謝している。しかし『徳をもって怨みに報いよ(怨みのある者に怨みで報いず、かえって恩報を施す)』と言う。今、秀頼が攻められるのは秀頼の罪だ。しかし秀頼が愚かだと言って二の丸に向かうことは私の過ちだ。私が穏便にことを運ぼうとしているのに秀頼が悪事を考えているのなら自滅するだろう。こちらから更に他の場所に手を出すべきではない」
 と自分の意見をいうと、満座の人々は家康の慈悲深さに涙にむせいだ。
 しかし諸大名はそれでも納得せず、更に多くの大名と話し合って翌日にもう一度言上しようとしたが、政宗が
「家康様は急に上洛された。昨日のことが敵に漏れたら何か策を講じてくるだろうという用心のためだ。もう年内は日数がなくお伺いすることも出来ない。まず堀や櫓を破却し裸城にすればいつでも城は落とせる」
 と話すと諸大名はそれに同意している。(『摂戦実録』)

伊達政宗の像
宮城県仙台市青葉区川内1の青葉城(仙台城)に建つ伊達政宗の像

UPDATE 2013年1月21日
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