地獄での再会

 大坂冬の陣が終わり和議となったため、上下に至るまで茶会や酒宴を催し、戦いの苦労を忘れた。
 松平忠直の家臣に原貞胤という者がいた。武田信玄の家臣だったが、武田家の滅亡後に浪人となった。しかし無双の剛の者だったため忠直によって召抱えられ、黒幌衆に加えられ軍使となっていた。
 真田幸村は貞胤と知り合いだったため
「和睦の後に互いの苦労を語り合って、慰め合いたいから私の家に来てくれ」
 と招待した。貞胤はどうしようか迷って忠直に相談すると「行って来い」と許しが出たので喜んで幸村の陣所に向かった。幸村は喜んでもてなし昔話をして、お互いに泣いた。

 宴会が終わると幸村は思いを語り始めた。
「今度の戦いで討ち死にするところを、思いがけない和議となって今日まで命を永らえ、再び会えたのは歓喜にたえない。幸村は不運な身ながら一方の大将を預かった事は、今生の面目(この世での名誉)だと思う。今後何かあった時は、見ていてくれ」
 そう言って飾ってある兜を指さした。
「床の上に飾っている鹿の抱角を打った兜は、先祖代々の家宝で父の昌幸から譲り受けた物だ。あれを着け討ち死にするつもりだ。もしこの兜を被った首を見たら、幸村のものと思って供養を頼む」
「戦場に行くからには生きて帰ると言うものか。後から死んだとしても、お互いにあの世で再会しよう」
 貞胤は約束できないことを幸村に言った。

真田幸村像
上田市の上田駅前に建つ真田幸村像

 その後、幸村は金の六紋銭を付けた白鞍を置いた白河原毛の馬を引き出してきた。そして自ら乗って走らせた。
「穆王の八匹の天馬(古代中国の伝説の馬。鳥よりも速いものなどがいたといわれている)に匹敵するような速さだろう」
 馬を自慢した後、
「もし今度合戦があれば、城郭が破壊されているので平野(へいや)での合戦になるだろう。平野(ひらの・地名)辺りで徳川の大軍とぶつかり、この馬の息が続かないほど戦って討ち死にするつもりならば、これは秘蔵のものだ」
 そう語って馬から下りた。
 そしてまた酒宴を再開し夕方になって貞胤は帰って行った。その翌年、天王寺・岡山での最終決戦で幸村は上記の兜を被り上記の馬に乗って討ち死にしている。(『難波戦記』)

木曽馬
木曽馬

管理人・・・・・・締めの言葉は『そんな幸村は健気でそして哀れだ』となっています。

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