幸村の首(その2)

真田幸村を討ち取った者には5万石でも10万石でも与える」
 徳川家康はかねてからそう口にしていた。そんな中、天王寺・岡山での最終決戦で幸村を討ち取った西尾宗次は首を持参して家康と謁見した。家康は宗次を褒めてその時の様子を尋ねたため、宗次が戦いの状況をありのままに報告すると、家康は感心した。しかしその後に宗次は少しうまいこと話そうと思い、つい誇張してしまう。
「幸村は最期に強く抵抗したため傷を負い、なんとか突き伏せて討ち取りました」
 すると家康は不機嫌になり
「幸村は今日の未明から自分で戦いを指揮し朝から晩まで合戦をしていた。それなのに最期にそのような働きができるとは思えない」
 と本人かどうか怪しいような言い方をした。焦った宗次は弁解。
「そのことです。その後に首を確認すると、顔に少し古い傷がありました。これが幸村の首の証拠です」
 そこで幸村の叔父・真田信尹が首実検の場に呼ばれて傷のことを尋ねられた。しかし信尹は記憶になかった。
「去年、二度も使いとして行きましたが、見覚えがありません」
「お前はその時、本人とは会わずに返答だけもらって帰ってきたのではないか」
「その会見の時は夜中で、しかも幸村が用心して近づけず遠かったので分かりませんでした」
 信尹はいい訳をしたが、家康はしきりに叱った。(『慶長見聞書』)

真田幸村戦死の碑
大阪市天王寺区逢坂の安居神社にある真田幸村戦死の碑

管理人・・・『少しうまいこと話そうと思い』は原文では『少し能く申上然るべく候へば』となっています。その部分が『日本の戦史 大坂の役』の現代語訳では『なお詳しく申し上げようと思って』となっていました。他の似たような逸話を見るとこっちの方が正しいかな、と私なりに判断して訳してみました。

UPDATE 2005年5月10日
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