幸村の建策(その2)

 1615年春、和議が破れたため、豊臣秀頼が評定を開いた。その際、長宗我部盛親が第一座に、二番目に真田幸村、三番目の席には毛利勝永が座った。秀頼は大野治長を通じて浪人達の意見を求めた。
「ご意見を述べて下さい」
 幸村が盛親に発言を譲ると、盛親も譲り返す。
「真田殿以外に意見を出される方がいるとは思えません。最初に意見して下さい」
 そこで幸村は持論を展開した。
「では申します。冬の陣では城の守りが堅く兵糧も多かったので、日にちが経てば西国の大名にもこちらに味方する者があると思っていましたが、思わず和議となって総堀が埋められてしまいました。今は守る手段がありません。ただし打って出て戦をするなら手があります。秀頼様に出馬していただき伏見城を落とし御上洛あって洛外の敵を追い払っていただく。そして宇治・瀬田を落として所々の要塞を固く守って、まずは洛中の政治をしていただきます。その後、勢いによって計略を考えます。もし御運が尽きても御上洛あって一度天下の主として号令したなら後世まで名が聞こえます」
 それに盛親を初めとした諸将が賛成した。しかし治長が難色を示した。
「秀頼様が出馬されることは軽々しい行為だ」
 人々が『治長は和議で母を関東に人質に出しているから反対しているのか。どういうつもりなのだ』と疑ったのもあり、結局結論は出なかった。

真田幸村・大助親子の供養碑
長野市松代町松代1015-1の長国寺にある真田幸村・大助親子の供養碑

 そんな中、治長の母が関東から戻された。その頃、徳川軍は伏見に着いたとの情報が入ってきたため、秀頼は再び大将達を集めて評定をした。盛親が前と同じように幸村に譲ったため、再度自説を述べる。
徳川家康は軍立(軍勢の配置)を常に急ぐと思っていましたが、少しも間違いはありませんでした。その理由は今、伏見に到着して兵を休めているにも関わらず『茶臼山に押し寄せるべし』との命令を出すのは急いでいるからだと思います。伏見より大和路を行けば大坂城まで約52キロあるので、徳川軍の兵たちは一睡もせずに来ることになります。そこで夜討をすれば成功するでしょう。私が行って一気に勝敗を決します」
 すると後藤基次が口を開いた。
「その計略は成功すると思う。ただ真田殿が夜討の大将となると、万が一討死された場合、人々は力を失う。今回の戦いで浪人達が集まったのは真田殿を目当てにしてのことだ。ここは拙者が行きましょう」
「いえ、私が行きます」
「その後の戦いが大切なので真田殿は残られよ」
 幸村と基次の押し問答となってしまい、またも決まらず仕舞いになってしまった。(『常山紀談』)

後藤又兵衛と妻子の墓
鳥取市新品治町135の景福寺にある後藤又兵衛と妻子の墓

UPDATE 2005年5月20日
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