裏切り

 1615年4月25日、翌日には京都から徳川軍が出陣しようと準備をしていた時、何者かが京都所司代・板倉勝重の役所を訪ねてきた。
「密かに直に申し上げたいことがあったので来ました」
 勝重が急いで出てくると、その者は
「私は大坂城内から来た御宿政友という者です。近々両将軍が京都を出発すると聞きました。それは止めていただきたい。その理由は古田重然の家臣と、もう一人の大将が豊臣秀頼公と示し合わせて、両将軍が出発した後に京都に火をかけ合図であちこちで放棄し大坂城からも兵を出し、挟み撃ちにする手はずにしている。軽々しく出馬しないでください」
 と密告した。
「私が密告したのには理由がある。私は元は小田原の北条氏政に仕えていたが、滅亡後は結城秀康の家臣となった。そして松平忠直にも引き続き仕えたが忠直に背いて出奔して大坂城に入った。私が浪人となった時、息子・右馬之助を江戸に置いておいたのですが、若者ゆえに法律を破り牢獄に入れられた。なにとぞ貴殿のとりなしで息子を助けてください。そのため、味方の大事な作戦だと知りながらここに来ました」

「さてさて(徳川軍から見た)忠節の心は誠に感心だ。ご子息のことは了解した。ゆっくり休まれよ」
 勝重は優しい言葉をかけて食事とお酒を振る舞った。この報告を勝重から受けた家康は
「江戸の牢獄に入れられている政友の息子は助けろ。そして政友はここに留まらせ徳川軍の一員としろ」
 と命じた。しかし政友は
「ありがたいと思いますが、秀頼公や大野治長と話したいことがあるので、大坂に帰りたい」
 そう言って次の日に大坂に戻った。そしてそのまま5月7日の天王寺・岡山での最終決戦で松平忠直軍と戦い潔く討ち死にしている。(『明良洪範』)

板倉勝重の廟所
西尾市貝吹町入の長円寺にある勝重の廟所

管理人・・・この後に続く文章は『政友の行い、見事だと聞いている。政友は大坂で物頭をして皆が頼もしく思い、秀頼公にも大事にされた』となっています。ちなみに息子は父親の忠節のおかげで許され、その上、旗本に召し上げられ武蔵氏という姓に変え、忠勤を尽くしたそうです。

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