馬を返す

 1615年5月7日の天王寺・岡山での最終決戦で今村正長が一番槍をして敵陣に馳せ入り血戦に及んだところ、乗っていた馬が鉄砲で撃たれ逃げてしまい歩行(かち)となってしまった。それを見た青山忠俊に属していた近藤忠左衛門が自分の馬を正長に貸してくれたため、その馬で敵陣に乗り込み首を取って自陣に戻った。しかし借りていた馬も乗り放してしまったため、再び敵陣に戻ってなんとか探し出し敵の首を添えて忠左衛門に馬を返した。
 その年(1615年)の12月、正長は御前に召された。
「昔、梶原景時が二度目に敵陣に乗り込んだ時は、息子の景季を助けようとしたからだ。お前が二度目に敵陣に乗り込んだのは、近藤の馬を返そうとしたためだ。義に関しては景時に勝っている。一騎当千の勇士だ」
 そして当日の戦功を賞され着ていた胴服を脱いで与えられ、後日に千石を加増された。
 今回の戦いで正長が携帯していた槍は三方ヶ原の戦いで夏目次郎左衛門吉信が徳川家康の代わりに討死した時に使っていたもので、息子の信次が伯母婿にあたる正長に
「亡き我が父にあやかれ」
 と贈ったものだった。そして今回の戦いで見事な働きをしてその槍に恥じない程の武名を顕したため感心しない者はいなかった。(『武徳編年集成家譜』)

今村正長の墓
静岡県下田市三丁目12ー12の了仙寺にある正長の墓

管理人・・・御前に召された時の相手ですが、おそらく徳川家康だと思います。なんとなくですが言うことが家康っぽいので。秀忠の可能性もありますが、秀忠が言う台詞ではない気がします。
 それに大坂の陣関係で秀忠に関連した話をほとんど読んだことがないんですよね…。総大将なのに存在感が薄い気がします。

UPDATE 2013年11月30日
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