乳臭い男

 1615年4月13日、大坂城内にて大野兄弟・木村重成渡辺糺薄田兼相など譜代と、客将の長宗我部盛親真田幸村後藤基次毛利勝永が呼ばれ軍議が始まった。
 まず幸村が会議の口火を開いた。
「ここは名城なので冬の陣では敵を寄せ付けませんでした。しかし今は本丸の他に堀はなく味方になる諸将もいません。そこで秀頼様には早く上洛していただいて伏見城に毛利殿・渡辺殿に5千の兵預けて守らせ、総軍は宇治瀬田の橋を引き、滋賀辛崎で対陣すれば、味方に加わる者も出てくるでしょう」
 幸村の提案に盛親と基次もこれに同意した。しかし大野治長は乳臭く暗愚だったので同意しなかった。

「我が軍が京都を占領して近江に出陣すれば、昔から兵が多い軍は何が起こるか分からないものですから、敵軍に隙が生じ勝機も見えてくるでしょう。このような裸城で大軍を引き受けても滅亡するだけです」
 幸村はなおも説いたが、治長はそれでも同意しなかった。肝心の秀頼はというと、清韓文英雲居に仏の道を説かれ、今出川晴季から有職を学んだりしただけで、軍事の道には疎かったため、一言も発しなかった。そのため客将達は意見を引っ込めた。
 そこで七手組の隊長達が折衷案を出した。
「大坂城は東に沼、西に海、北には川があるので、徳川軍は必ず南の平原から攻めてくる。今は堀がなければ10万の兵で一気に戦いを決めようと攻撃してくるだろうが、死を覚悟していない。味方は死を覚悟しているから必ず勝利します」
 それを聞いた秀頼は喜んで天王寺の周辺を平らにし、戦場にするように命令を出した。(『武徳編年集成』)

四天王寺南大門
戦場となった天王寺にある四天王寺南大門

管理人・・・この後に続く文章は『豊臣家の旗本は多くはない。ただ新たに召抱えられた浪人達は古今傑出の良将の元で恩恵を受け死を覚悟しているから必ず勝利するだろう』となっています。
 しかしまたまた治長が悪者です。『乳臭く暗愚』って言われたい放題ですね。幸村の建策(その1)幸村の建策(その2)とは軍議の内容がかなり違っています。見比べてみてください。

UPDATE 2005年5月22日
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